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広島の「平和の鐘」2代目の模様 被爆金属のハト後世へ

■記者 水川恭輔

 広島市が1949年の平和祭(現在の平和記念式典)で鳴らした「平和の鐘」の試作段階のハト模様の鋳物を、保管していた関係者の遺族が市公文書館(中区)に寄贈した。今は5代目となっている平和の鐘の2代目の模様だ。原爆投下後の焼け跡で集めた被爆金属を溶かして広島大教授や学生が鋳造。朝鮮戦争の余波で、この年しか鳴らされることはなかった。

 鐘は地元金属業者でつくる「広島銅合金鋳造会」が49年8月6日の広島平和記念都市建設法公布を祝い、その前日に市に贈った。試作段階の模様は、羽ばたく平和の象徴ハトの鋳物の一つである。

 鋳造会会長だった故松村米吉さん=93年に82歳で死去=の長男、伸吉さん(68)=西区=が「追悼の念を込め、制作を呼び掛けた経緯を知ってほしい」と公文書館に託した。金属を流し込む作業風景や寄贈式の写真6点など保管資料も届けた。

 2代目の鐘にはハトのほか「ノー・モア・ヒロシマズ」の英文や市章である3本の波線をデザイン。鋳造は、同会から依頼された故山本博・広島大工学部教授と研究室の助手や学生が担当した。半数は被爆者だったという。復興が進んでも「あの日」を忘れまいと被爆金属を使用。世界に平和を発信しようと欧米のベル風にした。

 平和祭の会場だった基町の当時の市民広場に高さ約9メートルの鉄骨の鐘楼で据えられた。しかし、翌50年の平和祭は朝鮮戦争の余波で中止。51年には整備中だった平和記念公園内に会場が移り、再び使われることはなかった。

 米吉さんは原爆で義父を亡くし、広島陸軍病院の元同僚も被爆死した。伸吉さんは「式典で1度しか鳴らされず、残念がっていた」と振り返る。

 いま、2代目の鐘は旧広島市民球場(中区)北側の一角に設置されている。当時、鋳造に加わった片島三朗広島大名誉教授(82)は「被爆者や遺族が原爆の残骸(ざんがい)から作り上げた唯一無二のヒロシマの鐘。まちづくりに生かし、いつかもう一度鳴らしてほしい」と願う。

平和の鐘
 8月6日の広島市の平和記念式典で原爆投下時刻の午前8時15分に鳴らされる。1947年に始まった。初代は現在の平和記念公園内に設けられたが51年に盗まれた。52~66年の3、4代目は市内の寺院から借りた。67年から使っている5代目は、人間国宝になった故香取正彦氏が制作し、吉田茂元首相の筆の「平和」の文字を浮き彫りにしている。

(2009年7月29日朝刊掲載)

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