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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月6日 市長「教育都市に転換」

 1945年12月6日。広島市の木原七郎市長が10月22日の就任後初の臨時市会で、就任あいさつをした。「哀悼ノ誠ヲ捧ゲ御冥福ヲ御祈リ申シマス」「広島市ノ災害ハ将ニ世界的一大悲劇」(市会速記録)。被爆死した粟屋仙吉前市長の名前を挙げて幾多の原爆犠牲者を悼み、自身が描く復興の道筋を述べた。

 打ち出したのは、明治期以降「軍都」として発展した都市の性格の大転換。「学徒ノ教育都市トシテノ新広島建設ニ進ムベキ」と訴え、「軍都ト正反対ノ平和学術教育ノ都市」の実現に意欲を示した。市中心部の広島城一帯に数多くあった陸軍施設は原爆投下で壊滅的な被害を受けていた。

 国の旧軍用地の市有への転換、長く陸軍の輸送拠点だった広島港の商業港・工業港としての振興も提唱。9月の枕崎台風で水害に襲われる中、太田川の防災対策も挙げた。政府から、ほかの戦災都市を上回る補助を得られるよう力を注ぐ考えを示した。

 現存する速記録のつづりの上では、12月6日の次の市会は26日。議員が「教育都市」などを巡って質問した。校舎が被爆したため市外で授業を再開する学校が相次ぐ中、将来は市内に戻る見込みがあるのかどうかなどを問うた。

 市内にあった官公庁が原爆の被害を受けて執務の場を市外に移している例もあった。市会は26日、官公庁や学校の「市内復帰」を求め、市が促すべきだとする意見書を満場一致で可決した。

 この日の速記録には、住宅不足対策を巡る当時40歳の浜井信三助役の答弁も記されている。被爆当時は市の配給課長で、市民の食糧の確保に奔走。木原市長の要請で12月12日に助役に就いたばかりだった。47年4月に初の公選市長となり、その年に最初の平和宣言を読み上げる。(編集委員・水川恭輔)

(2024年12月7日朝刊掲載)

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