被爆石畳のかけら 遺族に サカスタ建設の発掘調査で出土 「旧陸軍施設 歴史知って」
24年12月7日
エディオンピースウイング広島(広島市中区)の建設に伴う発掘調査で出土した被爆遺構の旧陸軍施設の石畳のかけらが、施設で被爆して亡くなった岡田俊治さん=当時(22)=のおい武鑓(たけやり)正勝さん(79)=南区=の元に届いた。武鑓さんは「この上を叔父が歩いたかもしれないと思うと感慨深い」。スタジアム地下に眠る歴史を多くの人に知ってほしいと願っている。(下高充生)
原爆投下時、岡田さんは物資を運ぶ軍馬を扱う旧陸軍輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」に所属していた。顔や手にやけどを負い、陸軍病院の分院が置かれた戸坂国民学校(現東区の戸坂小)に収容されたが、14日に亡くなった。連絡を受けた母が駆け付けたが、再会はかなわなかった。
市の2020~21年の発掘調査では、軍馬の水飲み場の床材に使われた約800枚の石畳などが出土した。市は先月から石畳57枚と7平方メートルのアスファルトを被爆遺構としてスタジアム南側で展示。予備の保管分を活用を望んだ大学教員や市民に譲った。遺構の保存を訴えてきた多賀俊介さん(74)=西区=も石畳のかけらを受け取り、今月3日、遺構を巡り親交のあった武鑓さんに5~10センチほどの7個を渡した。
岡田さんは旧制の岡山県第二岡山中学校(岡山二中、現岡山市中区の岡山操山高)の蹴球部で活躍。県内のサッカー大会で何度も優勝した。
4月にスタジアムで試合を観戦した武鑓さんは「叔父が生きていれば真っ先に訪れただろう。ピッチの上から叔父が見ているような気がした」と話す。被爆遺構は来場ルートのそばにあり、「スポーツを楽しめるのは平和だから。この地の歴史を忘れないでほしい」と望む。
(2024年12月7日朝刊掲載)
原爆投下時、岡田さんは物資を運ぶ軍馬を扱う旧陸軍輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」に所属していた。顔や手にやけどを負い、陸軍病院の分院が置かれた戸坂国民学校(現東区の戸坂小)に収容されたが、14日に亡くなった。連絡を受けた母が駆け付けたが、再会はかなわなかった。
市の2020~21年の発掘調査では、軍馬の水飲み場の床材に使われた約800枚の石畳などが出土した。市は先月から石畳57枚と7平方メートルのアスファルトを被爆遺構としてスタジアム南側で展示。予備の保管分を活用を望んだ大学教員や市民に譲った。遺構の保存を訴えてきた多賀俊介さん(74)=西区=も石畳のかけらを受け取り、今月3日、遺構を巡り親交のあった武鑓さんに5~10センチほどの7個を渡した。
岡田さんは旧制の岡山県第二岡山中学校(岡山二中、現岡山市中区の岡山操山高)の蹴球部で活躍。県内のサッカー大会で何度も優勝した。
4月にスタジアムで試合を観戦した武鑓さんは「叔父が生きていれば真っ先に訪れただろう。ピッチの上から叔父が見ているような気がした」と話す。被爆遺構は来場ルートのそばにあり、「スポーツを楽しめるのは平和だから。この地の歴史を忘れないでほしい」と望む。
(2024年12月7日朝刊掲載)