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連載・特集

緑地帯 玉本英子 ウクライナ 戦火の地で①

 私の父は広島で生まれ育ち、5歳の時に被爆した。的場町(現南区)にあった自宅は爆心地から1・6キロで、崩れ落ちた家の下敷きになった。助け出され、埃(ほこり)まみれの体を水で洗ってもらった。市外へと逃れる途中、市電の線路に転がる死体をまたいで歩いた。峠の竹やぶで夜を明かし、隣に座っていた男の子が翌朝には亡くなっていた。

 父はこの被爆体験を、現在暮らす大阪の小学校の平和授業で子どもたちに語り伝えてきた。父が戦争に向けるまなざしや平和への思いは、各地の紛争地を取材する報道記者としての私の視座ともなっている。

 今春、ウクライナ南部オデッサの学校を訪れた。ロシアのミサイル攻撃で親戚が亡くなった、父が兵士として前線で戦っている、という児童も少なくなかった。毎日のように鳴る防空サイレン。そのたびに授業は中断し、全員が地下シェルターに避難する。その壁には、核攻撃や原発破壊による放射能流出の事態に備え、対処方法を示したポスターが張られていた。

 被爆した子どもの手記集「原爆の子」(1951年)に当時、小学生だった父の言葉が記されている。「だれがこんなにしたのだろうか。おにいさんやお姉さんの友だちを死なせたのは、だれだろうか」。いまウクライナでも同じことが起きている。戦争で一番苦しむのは、いつも「力なき市民」だ。(たまもと・えいこ ジャーナリスト=大阪府)

(2024年12月7日朝刊掲載)

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