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連載・特集

日本被団協にノーベル平和賞 文化の視点から <下> 作家・元長崎原爆資料館長 青来有一さん

被爆者の声にもう一度光を

危うい無関心 小説の役割大きく

  ―作家として長崎市職員として、長年にわたって「被爆」と向き合ってこられました。日本被団協の平和賞受賞をどのように受け止めましたか。
 正直言って今年受賞するとは思っていなかった。被爆60年の2005年は「受賞するのでは」と長崎では期待が高まった。私は当時、平和推進課にいて、市長秘書室で発表を待った。17年は核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))が受賞した。被団協があるとしたら、被爆80年の来年だろうと思っていた。

 被団協が被爆の経験を繰り返し語り継ぎ、「核のタブー」をつくり上げた業績は大きい。ただ、ロシアのウクライナ侵攻や、イスラエルとイランの対立によって、核兵器使用の可能性が高まっている。もう一度、被爆者の声に耳を傾けようという警告の意味合いで、「79年」という年になったのではないか。その意味では被爆者全体への評価だと思う。

 被爆者の声が無視されることもあった。私自身も原爆の記憶を書くことについて、小説家の先輩から「まだやっているのか」と言われたことがある。原爆について取り組み続けた人として、特にイメージするのは、長崎で被爆した作家林京子さん(2017年、86歳で死去)だ。世間が耳を傾けてくれない時も、一生懸命書き続けた姿勢に敬意を抱く。私たち人間は移ろいやすい。物書きもそうだが、時代のテーマに飛びつきがちだ。だが、林さんは一貫していた。

  ―被爆2世として、原爆について書く難しさを感じることはありますか。
 新たな世代が経験を受け継ぐ際には「経験者じゃないのに語っていいのか」という違和感が必ず生じる。被爆者の証言は強い説得力があり、それには勝てないなという思いがあった。

 当事者じゃない私も、「この場所」にこだわれば書けるんじゃないか、そう思って長崎の信仰や原爆など「土地の記憶」をテーマにして書き始めた。一方で、「そんなんじゃなかった」と言われるのではないかと、「偽の語り部」として不安もあった。悩んでいた時に林さんから「自由に書いていいのですよ。小説は自由です」とエールを送られた。パッと解放された気持ちになった。

 「爆心」(文芸春秋)は、現代の長崎で生きるさまざまな「私」になり切ってみた。被爆者や障害者、殺人犯になった息子を持つ親、若い男を誘惑する人妻…。原爆にまつわる語りのパターンをどう避けるか工夫しながら、「土地の記憶」から逃れては生きていけない人々の姿を描いた。

  ―近年発表された小説は現在の核問題を扱っています。どのような思いを込めていますか。
 2018年の「フェイクコメディ」(集英社電子書籍)は、当時のトランプ米大統領が、広島を訪れたオバマ前大統領に対抗して長崎原爆資料館を訪れるという設定。館長の案内で展示を見て涙するトランプ大統領だが、核兵器の重要さが分かった-と語る。

 原爆のもたらす苦しみに共感するが、抑止力として核兵器に頼ってしまう問題をあぶり出そうと考えた。当時館長だった私は、公務員生命を懸ける覚悟で書いた。「使える核」として小型核兵器開発を進めたトランプ氏が再び大統領に就任する。この小説が、核について考えるきっかけになればと願う。

 最新作の「独りよがりの空まわり」(2024年「三田文学 秋季号」)では、憲法9条や非核三原則に触れ、核の傘の下で続いた、戦後日本の平和をテーマにした。

  ―「原爆文学」の重要性や小説の持つ力についてどう考えますか。
 原民喜、大田洋子、林さんたちによる原爆文学は年月を経て読み継がれてきた。ただ、現在それらの作品が爆発的な関心を集めることは難しい。林さんは「無関心が一番危うい」と話していた。新しい作家がどんどん出てくることが必要だと思っていたようだ。

 被爆を人間の経験として、話し合い、考え続けることが本当の意味での継承になるのではないかと考える。

 小説は、イデオロギーや政治に縛られず、自由に想像力を広げられる。読む人が時代を超えて物語を追体験できるのは、現実ではあり得ないこと。小説の役割はなくならないし、大きくなると思っている。(仁科裕成)

せいらい・ゆういち
 1958年、長崎市生まれ。両親は長崎で被爆。2001年「聖水」で芥川賞、07年「爆心」で谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞。ほかに「悲しみと無のあいだ」「小指が燃える」など。10~19年に長崎原爆資料館長を務めた。

(2024年12月7日朝刊掲載)

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