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社説・コラム

『この人』 ノーベル平和賞を受賞する日本被団協の事務室長 工藤雅子(くどうまさこ)さん

 「被爆者は元気。闘っているから」。1991年から33年、二度と被爆者を生むまいとする日本被団協の活動に寄り添ってきた。東京都港区の事務所に詰め、月刊の被団協新聞の編集や政府・政党との折衝、海外渡航の準備をこなす。合間には暮らしや介護の相談にも応じる。

 元小学校教諭。夫の転勤で東京に移り、教員仲間の紹介で2歳の娘を連れて被団協の採用面接を受けた。それまで被爆者との縁はなく、勤め始めてすぐに運動の熱量に驚かされた。全国から約100人が東京に結集。原爆被害への国家補償を求めて国会議員を訪ね歩き賛同を集める。国と病魔と闘う親世代の姿に「辞められなくなった。一緒にやりたいと思った」。

 日々、被爆者と議論し、国内外で行動を共にする中で感化されたのはやはり、国の戦争責任を問い、国民が被害を等しく我慢すべきだとする「受忍論」に打ち勝とうとする姿勢だ。それをまとめた「原爆被害者の基本要求」(84年発表)は、「音読すれば18分ほど」とさらりと言う。

 ただ、基本要求は実現していない。ノーベル平和賞受賞の背景には核兵器を巡る厳しい国際情勢がある。「良かったとは言えない。今まで被爆者が運動を背負ってくれたけど、これからは私たちが受け継がないと」

 被爆70年の2015年には、激務の中、くも膜下出血で倒れた。3カ月で職場復帰。家族の心配をよそに「いつ戻れるかしか考えてなかった」。仕事の緊張は週末の銭湯巡りで解きほぐす。長野県飯田市出身。娘2人は独立し、東京都内で夫と暮らす。(宮野史康)

(2024年12月10日朝刊掲載)

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