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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 金花子さん―負った「二重の苦しみ」

金花子(キムファジャ)さん(84)=呉市

在日韓国人被爆者として語り継ぐ

 あの日、原爆(げんばく)が落とされた広島の街には、朝鮮半島にルーツを持つ人たちが数多くいました。金花子(キム・ファジャ)さん(84)もその一人です。被爆者、そして在日韓国人として「二重の苦しみ」とともに生きてきました。

 かつて朝鮮半島は、日本に植民地支配されていました。苦しい生活を送る住民たちは生きる糧(かて)を求め、あるいは徴兵(ちょうへい)などで海を渡(わた)りました。金さんは釜山(プサン)出身の両親の下に大阪で生まれ、2歳ごろ広島市に移りました。

 1945年8月6日、広島駅に近い大須賀町の自宅(じたく)で目覚めたころでした。「ピカーッと光ったと思ったら、真っ暗になった」。閃光(せんこう)と暗闇(くらやみ)に包まれました。まだ4歳でしたが記憶(きおく)は鮮明(せんめい)です。

 当時は両親と妹、弟との5人家族。陸軍関係の仕事をしていた父は、既(すで)に出勤(しゅっきん)していました。母に連れられ、馬車に乗って牛田(現東区)へ逃(に)げたことを覚えています。上から布団をかぶせられ、その隙間(すきま)から見えた市街地は建物が「ぐちゃぐちゃ」。煙(けむり)が上がっていました。

 家族は無事でしたが、ほっとしたのもつかの間です。放射線の影響(えいきょう)なのか、髪(かみ)が抜け落ちました。頭痛(ずつう)やめまいがひどく、小学校入学は一年遅(おく)れ。体育の授業も受けられず、教室から級友たちを眺(なが)めていました。

 6年生から中学生にかけての時期は、学校に迎(むか)えの車が来て、米国の研究機関である比治山(現南区)の原爆傷害調査委員会(ABCC、現在の放射線影響研究所)に連れて行かれました。体を検査されるのです。

 「実験にされようるんじゃ」「嫁(よめ)に行かれんから、原爆に遭(お)うたと言わんのんよ」と周囲の大人たちからささやかれ、同級生からは「うつる」と言われました。在日韓国人への差別にも遭(あ)いました「人種が違う者は出て行きんさい」。小学生の時に級友から吐(は)かれた言葉で負った心の傷(きず)は、今もうずいています。

 20歳の時、同じ在日韓国人被爆者と結婚(けっこん)し7人の子に恵(めぐ)まれました。しかし、あの日の記憶(きおく)を家族に詳しく語り始めたのは数年前から。被爆の10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんの母校、幟町小(中区)にひ孫が入学したのがきっかけです。金さん自身、幟町中に通っていたときに佐々木さんを病院に見舞(みま)って一緒(いっしょ)に鶴(つる)を折りました。「幼(おさな)い命が無残に奪(うば)われたことを語り継がなければ」と思い起こしました。

 昨年、先進7カ国首脳(しゅのう)会議(G7サミット)に合わせて韓国の大統領が広島に来たことも、転機となりました。「在日韓国人被爆者の『二重の苦しみ』を伝えたい」。長年、「創氏(そうし)改名」による「はなこ」を名乗ってきましたが、韓国式の読み方「ファジャ」として体験証言を始めました。

 10日は、ノルウェーで日本被団協にノーベル平和賞が贈(おく)られます。金さんは「受賞の背後(はいご)に、国籍(こくせき)も年齢(ねんれい)も人生も違(ちが)うたくさんの被爆者がいる」と力を込めます。「一人一人の人生に影(かげ)を落とし続けるのが戦争であり、核兵器。受賞で終わらせず、戦争と核兵器をなくすための行動につないでいかなければなりません」(小林可奈)

私たち10代の感想

市民の人生変える兵器

 放射線の影響(えいきょう)と思われる症状(しょうじょう)などに苦しんだ金さんの証言を聴(き)き、核兵器は何も悪いことをしていない市民の人生を大きく変えてしまうと改めて思いました。核兵器がもたらす被害の甚大(じんだい)さを、日本被団協がノーベル平和賞受賞に決まった今こそ、もう一度、多くの人が認識(にんしき)する必要があります。(高2森美涼)

心や暮らしにも苦しみ

 金さんは被爆後、小学校への入学が遅(おく)れたり、在日韓国人であるため差別を受けたりしたといいます。「二重の苦しみ」は、とてもつらいことです。戦争や核兵器は、身体だけでなく心と暮(く)らしにも苦しみを与えます。多くの人に知ってもらうため、私も交流サイト(SNS)などで発信したいです。(中1相馬吏緒)

 今回の取材は、被爆者としての苦しみだけでなく、日韓関係について考える契機となりました。金さんは在日韓国人という理由で、小学生の時に「人種が違う者は出て行け」と同級生に言われたそうです。今は韓国の食べ物やポップカルチャーが日本の若者を中心に人気を集めています。一方で、在日韓国人への差別は根強く残っています。私たちは現代の文化だけでなく、韓国との間にある歴史や、人々の苦しみを理解することが大切です。その理解は、金さんも願う日韓の友好関係につながると思います。(中3西谷真衣)

 僕は今回の取材を通して、原爆で傷つけられた人の苦しみを感じることができました。金さんは被爆後、体が弱くなり、体育の授業に出られなかったそうです。そして同級生には「原爆症がうつる」と言われ、差別を受けました。その話を聞いた時、金さんは原爆を受けた被爆者側であるのになぜ差別を受けなければなかったのかと、とてもつらい気持ちになりました。原爆の悲惨さを知らない人はまだまだいます。そして、被爆者が高齢化する今、残念ながら、そういう人たちはさらに増えていくでしょう。だからこそ、自分たちが今、核兵器も戦争もない世界を目指した平和活動を推進していくことが大切だと思います。(中1森本希承)

(2024年12月10日朝刊掲載)

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