×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 迷子収容所で保護続く

 1945年12月。広島市が比治山国民学校(現南区の比治山小)に設けた「比治山迷子収容所」に、原爆投下で家族と引き裂かれた子どもがなおも保護されていた。

 同校の「昭和二十年度日誌」(同小所蔵)によれば、8月8日に「迷子収容所開設サル」。職員の斗桝良江さん(91年に76歳で死去)はこの日、裸にワイシャツを掛けられた姿で市職員に連れてこられた2歳ほどの女の子を抱き取ったと手記に記す。とてもおびえており、「おろせば泣きわめいてすがりつく」。

 「出来るだけのことはせねば」と自宅から服やおしめを持って来た。その後も次々に保護され、ミルクを飲まない乳児には自分の胸を吸わせた。

 9月2日時点の「迷子収容所概要」(市公文書館所蔵)によると、職員のほか「市保姆一二名」が交代で勤務。爆心地から約2・8キロで半壊した校舎は雨漏りが激しかった。5歳以下40人を含む計91人が保護され、うち32人が引き取られたが、9人は亡くなった。「強度ノ下痢症状ヲ起シ衰弱死亡」。放射線は幼子も容赦なく襲っていた。

 斗桝さんは遺体を運動場で焼いた。「自分の名さえ知らぬ子、自分の名がやっと言える子らが、私達に甘える事もようせず死んでしまった事を思うと、ふびんでならないのである」(手記)

 子どもの保護は9月以降も続いた。今の広島県北広島町に集団疎開していた神崎国民学校(現中区の神崎小)の教諭だった渡部みさをさんは「最後に残った2名の子どもを、比治山国民学校の孤児収容所に送り届けたのは、もう師走の迫った11月の終わりであった」と手記で明かす。迎えのない児童は親戚を捜して預けたが、2人は結局見つからなかったためだ。

 迷子収容所にいて引き取り手が現れなかった16人は、山下義信氏が五日市町(現佐伯区)で開いた広島戦災児育成所に46年2月に移った。(編集委員・水川恭輔、山下美波)

(2024年12月10日朝刊掲載)

年別アーカイブ