被爆者に報い行動する時 被団協ノーベル平和賞授賞式
24年12月11日
「だまって、うつむいて、わかれわかれに、すみっこで生き残ってきた私たち」
1956年3月に広島市であった広島県原爆被害者大会の宣言「世界への挨拶(あいさつ)」に、戦後の日本社会で被爆者が味わっていた孤立感がにじむ。5月に広島県被団協、8月に日本被団協が発足し、原水爆禁止、核兵器廃絶を訴え続けて68年。手を取り合って立ち上がった被爆者たちの勇気が、戦争で3度目の核兵器使用を防ぎ、ノーベル平和賞受賞でたたえられた。
ノルウェーのオスロ市庁舎であった授賞式で、日本被団協の箕牧智之代表委員と田中重光代表委員が賞状とメダルを受け取る瞬間を2階のバルコニーから感慨深く見届けた。人類を救うという高潔な目標を掲げ、身も心も削りながら「核戦争起こすな、核兵器なくせ」と叫び続けてきた被爆者たちの歩みは、平和賞にふさわしい。
受賞発表以降、被爆者たちのためらいも垣間見た。「運動の中心を担った先人たちはもう逝った」「核兵器廃絶につながるのか」…。それでも前を向いた。亡き森滝市郎さんが起草した広島県原爆被害者大会の宣言には「あの瞬間に死ななかった私たち」という一文もある。被爆者たちは米軍が落とした原爆により命を絶たれた死没者たちの思いを背負っている。
広島で被爆した木村緋紗子さん(87)=仙台市=はオスロに来て以降、朝に夜に記者に囲まれる。「今、話さないと」。世界の関心が集まる場が被爆者たちの使命感を駆り立てているのだ。
それ以上に感じているのが焦りだろう。核兵器使用の危険が高まる中、老いゆく被爆者の訴えをなお必要とする国際社会の現状はあまりに歯がゆい。
田中熙巳代表委員は授賞式前日の12月9日のオスロでの記者会見で、受賞で世界が変わるかと問われ、「若い人が未来をどう切り開くかだ」と返した。核兵器も戦争もない世界を成し遂げる使命を負うのは被爆者だけではない。人類の行動にかかっている。(オスロ発 宮野史康)
(2024年12月11日朝刊掲載)
1956年3月に広島市であった広島県原爆被害者大会の宣言「世界への挨拶(あいさつ)」に、戦後の日本社会で被爆者が味わっていた孤立感がにじむ。5月に広島県被団協、8月に日本被団協が発足し、原水爆禁止、核兵器廃絶を訴え続けて68年。手を取り合って立ち上がった被爆者たちの勇気が、戦争で3度目の核兵器使用を防ぎ、ノーベル平和賞受賞でたたえられた。
ノルウェーのオスロ市庁舎であった授賞式で、日本被団協の箕牧智之代表委員と田中重光代表委員が賞状とメダルを受け取る瞬間を2階のバルコニーから感慨深く見届けた。人類を救うという高潔な目標を掲げ、身も心も削りながら「核戦争起こすな、核兵器なくせ」と叫び続けてきた被爆者たちの歩みは、平和賞にふさわしい。
受賞発表以降、被爆者たちのためらいも垣間見た。「運動の中心を担った先人たちはもう逝った」「核兵器廃絶につながるのか」…。それでも前を向いた。亡き森滝市郎さんが起草した広島県原爆被害者大会の宣言には「あの瞬間に死ななかった私たち」という一文もある。被爆者たちは米軍が落とした原爆により命を絶たれた死没者たちの思いを背負っている。
広島で被爆した木村緋紗子さん(87)=仙台市=はオスロに来て以降、朝に夜に記者に囲まれる。「今、話さないと」。世界の関心が集まる場が被爆者たちの使命感を駆り立てているのだ。
それ以上に感じているのが焦りだろう。核兵器使用の危険が高まる中、老いゆく被爆者の訴えをなお必要とする国際社会の現状はあまりに歯がゆい。
田中熙巳代表委員は授賞式前日の12月9日のオスロでの記者会見で、受賞で世界が変わるかと問われ、「若い人が未来をどう切り開くかだ」と返した。核兵器も戦争もない世界を成し遂げる使命を負うのは被爆者だけではない。人類の行動にかかっている。(オスロ発 宮野史康)
(2024年12月11日朝刊掲載)