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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月11日 尾道の20歳 惨状撮影

 1945年12月11日。当時20歳で尾道市に住む平原伝(つたえ)さんはカメラを携えて広島市を訪れた。中国配電(現中国電力)尾道営業所の社員。広島は、研修のため2年間の寮生活を送った思い出の街だった。

 「大都会じゃった広島が、原爆でどうなったのか。個人的な関心から撮影を考えましたが、なかなかフィルムが手に入らんでね」。97歳だった2年前の8月、本紙の取材に苦労を明かした。

 原爆投下時は召集されて九州の部隊にいた。終戦が告げられた後の8月18日に松江市の部隊を経て尾道市に戻ると、広島の撮影を思い立つ。移動の列車で広島にいた女性から話を聞き、衝撃を受けたためだ。「街の状況を聞くと丸焼けじゃと言い、中国配電のことを聞くと何と『ないでしょう』と」

 しかし、物資不足でフィルムが手に入らない。ある日、尾道営業所の関係者が持っていると知り、「物々交換」を思いついた。差し出したのはサツマイモ。「当時は食糧難だからイモも貴重で。親が農家だったから、どっさりと」

 手に入れたフィルムで惨状を写した。「シャッターを切りながら、つくづく『ひどいもんじゃなあ』と思いました」。小町(現中区)の中国配電本店は形は残っていたが、内部を焼失していた。胡町(同)や周辺も焼き尽くされていた。寮生活の頃、映画館や楽器店を訪ねた繁華街があった。

 健在の原爆写真の撮影者がわずかになる中で本紙の取材に応じ、自宅で保管する13枚のプリントを前に「とにかく戦争は嫌です」と語っていた。その4カ月後の2022年12月に亡くなった。(編集委員・水川恭輔)

(2024年12月11日朝刊掲載)

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