[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月中旬 遺骨なき死亡証明書
24年12月12日
1945年12月中旬。広島女子高等師範学校付属山中高等女学校(現広島大付属福山中高)1年の二宮正子さん=当時(13)=の死亡証明書が発行された。被爆から4カ月余り、両親が行方を捜し続けたが、遺骨すら見つからないまま葬儀を営むことになった。
二宮さんは現在の広島県北広島町の実家を離れ、広島市江波地区(現中区)の父の友人宅から千田町(同)にあった山中高女に通っていた。1、2年生は8月6日、爆心地から約1・2キロの雑魚場町(同)での建物疎開作業に動員され、ほぼ全滅した。
前日5日に13歳の誕生日を迎えたばかりだった二宮さんも作業に出ていた。父が市中心部へ向かい、何日も捜し回ったが身に着けていた物も発見できなかった。母は自宅最寄りのバス停に通い、娘の帰りを待ち続けた。
当時10歳の弟尊明さんは2004年の手記で当時を振り返っている。「小柄な母が頭をたれて帰ってくる姿は、いま思い出しても、哀れであり悲しくなってくる。いつの時か、母が『怪我(けが)だらけになっていてもいいから帰ってこないかなあ。』と言ったことがある」
下宿先にあったブラウスや通学かばん、日記が形見として残った。帰省した5月27日の日記には、広島に戻りたくないと泣いた二宮さんを母親がきつく注意した様子をつづっている。母は「私が正子を殺したようなものだ」と悔い、戦後は子どもに声を荒らげて𠮟ることも声を立てて笑うこともなくなったという。
西警察署が発行した死亡証明書は12月17日付。「年が改まる前に、遺骨がなくても葬式を済ませてやりたいと考え役場に出したのであろう」。手記で父母の心情をおもいやった尊明さんは04年に形見を原爆資料館に託した。(山下美波)
(2024年12月12日朝刊掲載)
二宮さんは現在の広島県北広島町の実家を離れ、広島市江波地区(現中区)の父の友人宅から千田町(同)にあった山中高女に通っていた。1、2年生は8月6日、爆心地から約1・2キロの雑魚場町(同)での建物疎開作業に動員され、ほぼ全滅した。
前日5日に13歳の誕生日を迎えたばかりだった二宮さんも作業に出ていた。父が市中心部へ向かい、何日も捜し回ったが身に着けていた物も発見できなかった。母は自宅最寄りのバス停に通い、娘の帰りを待ち続けた。
当時10歳の弟尊明さんは2004年の手記で当時を振り返っている。「小柄な母が頭をたれて帰ってくる姿は、いま思い出しても、哀れであり悲しくなってくる。いつの時か、母が『怪我(けが)だらけになっていてもいいから帰ってこないかなあ。』と言ったことがある」
下宿先にあったブラウスや通学かばん、日記が形見として残った。帰省した5月27日の日記には、広島に戻りたくないと泣いた二宮さんを母親がきつく注意した様子をつづっている。母は「私が正子を殺したようなものだ」と悔い、戦後は子どもに声を荒らげて𠮟ることも声を立てて笑うこともなくなったという。
西警察署が発行した死亡証明書は12月17日付。「年が改まる前に、遺骨がなくても葬式を済ませてやりたいと考え役場に出したのであろう」。手記で父母の心情をおもいやった尊明さんは04年に形見を原爆資料館に託した。(山下美波)
(2024年12月12日朝刊掲載)