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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 被爆医師が郊外で開業

 1945年12月。眼科医の藤堂正憲さん(2004年に94歳で死去)が広島市下柳町(現中区)から父の故郷近くの広島県小谷村(現東広島市)に移り、開業していた。

 空襲時の救護に備え、広島市内の医療従事者は知事発行の「防空業務従事令書」により疎開を禁止されていた。市医師会史(80年刊)によると、市内にいた医師298人の9割に当たる270人が被爆。225人が亡くなった。原爆投下直後に国民学校や寺に53カ所の救護所が設けられており、生き残った医師たちが治療を担った。

 藤堂さんは自宅を兼ねた診療所で被爆。高熱や出血斑、脱毛などの症状に苦しむ弟の治療に当たった。疎開させていた医薬品などで症状が回復するも、藤堂さんが輸血をしたところ、呼吸困難に陥り9月6日に亡くなった。「あの時私の血をやらなければ」と市医師会がまとめた「ヒロシマ医師のカルテ」(89年刊)に無念の思いを記す。

 落ち着くと、家財道具や医薬品を馬車に積んで小谷村へ引っ越し、農家の一軒家を借りて診療所を開いた。「当時、村は無医村だったので、私の開業は村民には重宝がられた。私の専門は眼科だが、幸い軍医生活が長かったので、内科でも外科でも真似事くらいは出来た」(同書)。求められて近隣の村へ往診した。

 地主には保有米が与えられることもあり、食糧難の中で開業は「食糧確保が目的」(同書)とも明かす。翌46年10月には焼け跡に戻り、再出発した。現在も同じ場所で医院を引き継ぐ孫の浩敏さん(60)は「当時は担当科も関係なく、祖父も患者のためにできることをやったはず」としのぶ。

 12月14日付中国新聞には、爆心地に近い尾道町(現中区)の眼科杉本病院が、川内村(現安佐南区)で診療を開始する広告も出ている。(山本真帆)

(2024年12月13日朝刊掲載)

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