オスロの灯 被団協ノーベル平和賞 <上> 被爆者の言葉 世界に響く
24年12月13日
ノーベル平和賞を受賞した被爆者の全国組織、日本被団協は、ノルウェー・オスロから、核兵器も戦争もない社会へ共に考え、行動するよう世界へメッセージを発した。被爆者たちが営々と掲げてきたその灯(ともしび)を、国際社会や次代を担う若者たちはどう受け継ぐのか。オスロで追った。
日本被団協の3人の代表委員を待つオスロ市庁舎のホールに、広島市の平和記念式典で歌い継がれる「ひろしま平和の歌」の鐘の音の演奏が響いていた。ファンファーレが鳴り、田中熙巳(てるみ)さん(92)を先頭に、田中重光さん(84)=長崎原爆被災者協議会会長、箕牧(みまき)智之さん(82)=広島県被団協理事長=が入場。10日、ノーベル平和賞の授賞式が幕を開けた。
ノーベル賞委員会のフリードネス委員長の格調高いスピーチが場を引き立てる。賞状を受け取った箕牧さんは感極まり、「先人のおかげ。涙がぽろっと出ました」。
拍手1分半続く
国王、王妃たちに続いて「核兵器廃絶を目指して闘う世界の友人のみなさん」と呼びかけて始めた田中熙巳さんの受賞演説は約22分。伯母たちの死と長崎の惨状を描写し、出席者の涙を誘う。「核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と締めくくると、拍手が約1分半続き、最後は立ち上がってたたえられた。
日本からの代表団は8日、空路で乗り継ぎを含め20時間ほどかけてオスロ入りした。最高気温すら氷点下となる日もある北欧の街。代表委員は授賞式の日、テレビ収録や要人との面会など9件も公式日程があった。
箕牧さんは心不全の治療で、11月に3週間余り入院生活を送ってから渡航した。医師に英訳してもらった薬のリストを持参。体重や塩分の管理も必要で、「パン→1個でガマン」などと食事の注意点を手書きしたメモを持ち込んだ。移動に車椅子を使う場面もあった。
代表委員と代表理事、事務局長、事務局次長の平均年齢は82歳。それでも、関連行事の合間を縫って、証言に立った。
長崎で被爆した代表理事の横山照子さん(83)は11日、「授賞式と同じくらい大切」という高校での証言に臨んだ。被爆後、入退院を繰り返して十分に学校へ行けなかった妹の無念を絞り出すように語った。「家族の役に立っていない。死にたい」と言い44歳で亡くなったと伝え、「原爆の被害は爆発の一瞬ではなく、人間の一生を駄目にする。地球上に一発も要らない」と語りかけた。
その言葉は異国の若者の心を揺さぶった。3年トロル・オルドネスさん(20)は「教科書でヒロシマ、ナガサキは知っていたが、被爆者の感情を聞いて衝撃を受けた。直接話を聞けて良かった」。
「原爆許すまじ」
被団協結成68年。振り返ると被爆者はいつも心身を削り、核兵器廃絶と被爆者援護を訴えてきた。何がそうまでさせるのか。
事務局長の木戸季市さん(84)は到着の翌朝、国会前の広場を訪れた。日本原水協と非政府組織(NGO)ピースボートの企画で渡航した被爆者たちと合流し、国会議員や子どもたちを前に「原爆を許すまじ」を大声で歌った。「ここで頑張らないと。あと何年か分からないけど、核兵器から人間を守る、余生はこれに尽くすと決めている」
過密日程をこなした被爆者たち。12日早朝、帰国を前にホテルで報道各社の取材に応じた田中熙巳さんは、石破茂首相との面会が実現した場合の対応を問われると、核兵器禁止条約に加わらない政府への憤りが口をついて出た。「日本の総理が、被爆国の総理ができなくてどうするんですか、と言おうと思う」。オスロでの栄誉を運動の力に変える。(下高充生、宮野史康)
(2024年12月13日朝刊掲載)
日本被団協の3人の代表委員を待つオスロ市庁舎のホールに、広島市の平和記念式典で歌い継がれる「ひろしま平和の歌」の鐘の音の演奏が響いていた。ファンファーレが鳴り、田中熙巳(てるみ)さん(92)を先頭に、田中重光さん(84)=長崎原爆被災者協議会会長、箕牧(みまき)智之さん(82)=広島県被団協理事長=が入場。10日、ノーベル平和賞の授賞式が幕を開けた。
ノーベル賞委員会のフリードネス委員長の格調高いスピーチが場を引き立てる。賞状を受け取った箕牧さんは感極まり、「先人のおかげ。涙がぽろっと出ました」。
拍手1分半続く
国王、王妃たちに続いて「核兵器廃絶を目指して闘う世界の友人のみなさん」と呼びかけて始めた田中熙巳さんの受賞演説は約22分。伯母たちの死と長崎の惨状を描写し、出席者の涙を誘う。「核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と締めくくると、拍手が約1分半続き、最後は立ち上がってたたえられた。
日本からの代表団は8日、空路で乗り継ぎを含め20時間ほどかけてオスロ入りした。最高気温すら氷点下となる日もある北欧の街。代表委員は授賞式の日、テレビ収録や要人との面会など9件も公式日程があった。
箕牧さんは心不全の治療で、11月に3週間余り入院生活を送ってから渡航した。医師に英訳してもらった薬のリストを持参。体重や塩分の管理も必要で、「パン→1個でガマン」などと食事の注意点を手書きしたメモを持ち込んだ。移動に車椅子を使う場面もあった。
代表委員と代表理事、事務局長、事務局次長の平均年齢は82歳。それでも、関連行事の合間を縫って、証言に立った。
長崎で被爆した代表理事の横山照子さん(83)は11日、「授賞式と同じくらい大切」という高校での証言に臨んだ。被爆後、入退院を繰り返して十分に学校へ行けなかった妹の無念を絞り出すように語った。「家族の役に立っていない。死にたい」と言い44歳で亡くなったと伝え、「原爆の被害は爆発の一瞬ではなく、人間の一生を駄目にする。地球上に一発も要らない」と語りかけた。
その言葉は異国の若者の心を揺さぶった。3年トロル・オルドネスさん(20)は「教科書でヒロシマ、ナガサキは知っていたが、被爆者の感情を聞いて衝撃を受けた。直接話を聞けて良かった」。
「原爆許すまじ」
被団協結成68年。振り返ると被爆者はいつも心身を削り、核兵器廃絶と被爆者援護を訴えてきた。何がそうまでさせるのか。
事務局長の木戸季市さん(84)は到着の翌朝、国会前の広場を訪れた。日本原水協と非政府組織(NGO)ピースボートの企画で渡航した被爆者たちと合流し、国会議員や子どもたちを前に「原爆を許すまじ」を大声で歌った。「ここで頑張らないと。あと何年か分からないけど、核兵器から人間を守る、余生はこれに尽くすと決めている」
過密日程をこなした被爆者たち。12日早朝、帰国を前にホテルで報道各社の取材に応じた田中熙巳さんは、石破茂首相との面会が実現した場合の対応を問われると、核兵器禁止条約に加わらない政府への憤りが口をついて出た。「日本の総理が、被爆国の総理ができなくてどうするんですか、と言おうと思う」。オスロでの栄誉を運動の力に変える。(下高充生、宮野史康)
(2024年12月13日朝刊掲載)