[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 引き揚げ孤児 宇品で保育
24年12月16日
「新入所児に病人多く終日多忙を極む」
1945年12月。広島市宇品地区(現南区)の旧陸軍船舶司令部の兵舎の一角に、「引揚孤児収容所」があった。陸軍から復員した当時26歳の上栗頼登さん(95年に76歳で死去)が私財を投じて開設。フィリピンなど国外から引き揚げてきたが、引き取り手のいない孤児を保護していた。
上栗さんや、保育士たちが世話をした。12月の「保育日記」には、「大竹より引揚げ孤児三十一名入所」(17日)、「新入所児に病人多く終日多忙を極む」(19日)と受け入れの様子がつづられている。25日にはクリスマスの祝いにミカンを買ったといい、「食後ストーブをかこんで楽しい集會(しゅうかい)を致しオミカン二個づつを與(あた)へた」
一方で「(栄養失調)仲宗根政子死亡ス」(13日)との記述も。医師の巡回は月2回ほどで「二三人重病人がいる 早く診察してやってほしい」(23日)。広島赤十字病院も治療に協力していたが「病児を日赤に送っては、死者をつれて帰り、葬式を営む毎日」(83年刊の広島県史)だった。
救護中に心残り
上栗さんは休暇中だった8月6日、広島市郊外の実家で被爆。救護活動のため横川を通って市中心部に入りかけたとき、亡くなった母親の乳房を吸う乳児の姿を見た。水筒の水を飲ませて立ち去ったのが心残りで、長男哲男さん(75)=東広島市=は「父は、孤児のために生きようと決めたそうです」。
比治山国民学校(現南区の比治山小)の迷子収容所に物資を運ぶなど協力を始めた。10月に広島県内に引き揚げ船が入港し始めると、栄養失調や病気の孤児がいた。上栗さんは保護するため10月22日に収容所を開いた。
名前を言えない子どもには、南方からの引き揚げだったため「南一子」や「南千代子」と名付けた。12月までに220人を収容したが、うち40人が亡くなったという。
新生学園に至る
46年に草津東町(現西区)へ移り、戦災孤児も受け入れた。47年から基町(現中区)で運営。71年に東広島市の現在地に落ち着き、児童養護施設「広島新生学園」として今に至る。上栗さんは「開設当初3、4年の間は日々無我夢中だった」と88年8月4日付の中国新聞夕刊に寄せている。
敷地内には納骨堂が設けられ、引き揚げ孤児の骨つぼ10人分が残る。あの日救えなかった母子をモチーフにした原爆犠牲者の慰霊碑には上栗さんの筆でこう刻む。「あわれ業火 熔(と)け滾(たぎ)る 生命なりせば せめてもの 水を捧(ささ)げて あげしもの あまた はらから 悲しみの 心よせあい 天に舞ふ 燃ゆるあの日ぞ 悔い深し」 (山下美波)
(2024年12月15日朝刊掲載)