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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月14日 観音国民学校で慰霊祭

 1945年12月14日。広島市東観音町にあった観音国民学校(現西区の南観音小、観音小)の慰霊祭が営まれた。分かっているだけで、玉木知校長をはじめ教職員と児童を合わせて86人が被爆当日に亡くなった。

 弔辞2通が原爆資料館に残る。うち1通は、戦後、観音地区の連合町内会長に選ばれた田頭新太郎さんによる。「観音国民学校々地跡に立てば満目蕭条(しょうじょう)只(ただ)累々たる焦土、寂寞(せきばく)たる廃虚の残るのみ」。その寂しさを言葉を連ねて表している。

 約1600人いた児童のうち多くは疎開していたが、爆心地から南西約1・4キロで、倒壊した木造2階建て校舎の下敷きになった教員や児童がいた。学校はその後、全焼。田頭さんは「次代を担ふべき諸君の輝く世代を招来すべかりし我々の努力至らずしてこの事態に及びし何を以てか地下に謝せむ」と悔やんだ。

 もう1通は、観音国民学校教育援護会長の津島市太郎さんの名で、玉木校長の最期の様子を記す。「『児童はどうした、一刻も早く子供達を救い出して呉れ、俺はかまふな。自分は捨て置け。児童を頼む』の連呼でありました」

 当時18歳で同校の教員だった寺沢英子さん(97)=廿日市市=は学校に立ち寄った後、近くの集会所で授業の準備をしていて被爆した。母キョウさん=当時(55)=と姉貞子さん=同(20)=を亡くし、遺骨は見つかっていない。右脚に大けがを負うが、学校再開に合わせて秋に復帰した。

 慰霊祭は記憶になかったが、「子どもたちは衛生状態が悪い中でも、元気に戻ってきてくれた。家族を失った悲しみはとても大きかったけど、子どもたちに教えるのが好きで教師を続けられました」。59歳まで小学校の教員として勤めた。(山本真帆)

(2024年12月14日朝刊掲載)

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