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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月中旬 中国文化連盟が旗揚げ

 1945年12月中旬。広島県祇園町(現広島市安佐南区)の山本国民学校(現山本小)で、中国文化連盟が結成された。文化運動を再建しようと、詩人の栗原貞子さん(2005年に92歳で死去)や夫の唯一さん(80年に73歳で死去)が広島在住の文学同好者に呼びかけ、約60人が出席。機関誌「中国文化」の発刊も打ち合わせた。

 栗原さんは祇園町の自宅で被爆。8月8日夜、夫や親交のあったプロレタリア作家の細田民樹さん(72年に80歳で死去)と自宅で一晩中語り合った。戦時中も戦争批判の詩や短歌を書きためており「戦争が終ったら文化運動を始めよう。こんなひどい無謀な戦争を起したのも、国民に自由な文化がなかったからだ。抵抗がなかったからだ」(83年刊の詩歌集「黒い卵」完全版)。

 連盟顧問の一人に細田さんが就任。12月21日付中国新聞に寄せた所感では街の復興に重ね「『中国文化連盟』もこの広島の廃虚に打ちおろされた最初の槌(つち)の音」と訴えた。

 ただ、栗原さんは当初、連合国軍総司令部(GHQ)が9月にプレスコードを発令したのを知らなかった。県の担当者に発刊の意向を伝えたところ「原爆だけはやめておきなさい」と言われた。だが「原爆をさけて戦後の出発はあり得ない」(黒い卵)。意志は固く、文芸に携わる人たちに投稿を求めて回った。

 物々交換や闇価格で手に入れた粗悪な仙花紙で印刷。GHQの事前検閲で、大きな削除はなかった。46年3月10日創刊。「原子爆弾特集号」とし、栗原さんの詩「生ましめんかな」をはじめ、被爆体験を題材にした創作や短歌など延べ約100人の作品を収めた。

 巻頭で唯一さんはこうつづる。「創刊号を原子爆弾特集号として世に送ろう。これは広島を郷土とする我々の義務であり、且(か)つ満身創痍(そうい)の我々のみの歌だ」。いち早く被爆の惨状を伝えた文芸誌の一つとして、3千部を完売したとされる。(山下美波)

(2024年12月17日朝刊掲載)

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