[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 17歳の履歴書 出せず
24年12月18日
1945年12月。当時17歳だった広島県廿日市町(現廿日市市)の片山菊枝さんが寝たきりになっていた。原爆投下から1カ月余り金輪島(現広島市南区)で負傷者の救護に当たった後、体調が悪化。「元気になったら就職し、家族を楽にさせる」との意欲を持ち、履歴書も書いていた。
段原尋常高等小(現南区の段原小)、広島女子商業学校(現広島翔洋高)の入学、卒業年月を列記。女子挺身(ていしん)隊員として陸軍船舶司令部に動員された経歴も書き込んでいる。
片山さんは8月6日に宇品町(南区)で被爆。直後に対岸の金輪島に派遣され、搬送された負傷者の救護に9月10日まで尽くした。弟の穫(あつむ)さん(2014年に83歳で死去)は05年に原爆資料館へ履歴書などを寄贈した際の聞き取りに「姉は睡眠もほとんど取れないほどの勤務で、除隊した時には疲れ果てていた」と語っている。
段原地区(現南区)にあった自宅は壊れ、両親や弟たちと共に廿日市町に転居。年末には病床に伏していたとみられる。それでも、「勤めに出たら何か買ってあげる」と弟を気遣う、優しい姉だった。
年明けに医者に診てもらったが「原因不明」。鼻血や歯茎の出血の症状が出て、46年5月19日に18歳で亡くなった。死因は「急性肺炎」と診断されたという。履歴書は家族の手元に残った。
一人娘を失った父は後に、救護活動の結果、犠牲になったことを示そうと奔走。当時の上司を捜し出し、「金輪島防空壕(ごう)内にて軍の命令に依り晝(ちゅう)夜の別無く九月十日除隊の日まで被爆者の看護に勤務」との証明書を書いてもらった。母は、絵が上手だった片山さんがパラパラ漫画や動物を描いたノートを仏壇から出しては眺め、しのび続けた。(山下美波)
(2024年12月18日朝刊掲載)
段原尋常高等小(現南区の段原小)、広島女子商業学校(現広島翔洋高)の入学、卒業年月を列記。女子挺身(ていしん)隊員として陸軍船舶司令部に動員された経歴も書き込んでいる。
片山さんは8月6日に宇品町(南区)で被爆。直後に対岸の金輪島に派遣され、搬送された負傷者の救護に9月10日まで尽くした。弟の穫(あつむ)さん(2014年に83歳で死去)は05年に原爆資料館へ履歴書などを寄贈した際の聞き取りに「姉は睡眠もほとんど取れないほどの勤務で、除隊した時には疲れ果てていた」と語っている。
段原地区(現南区)にあった自宅は壊れ、両親や弟たちと共に廿日市町に転居。年末には病床に伏していたとみられる。それでも、「勤めに出たら何か買ってあげる」と弟を気遣う、優しい姉だった。
年明けに医者に診てもらったが「原因不明」。鼻血や歯茎の出血の症状が出て、46年5月19日に18歳で亡くなった。死因は「急性肺炎」と診断されたという。履歴書は家族の手元に残った。
一人娘を失った父は後に、救護活動の結果、犠牲になったことを示そうと奔走。当時の上司を捜し出し、「金輪島防空壕(ごう)内にて軍の命令に依り晝(ちゅう)夜の別無く九月十日除隊の日まで被爆者の看護に勤務」との証明書を書いてもらった。母は、絵が上手だった片山さんがパラパラ漫画や動物を描いたノートを仏壇から出しては眺め、しのび続けた。(山下美波)
(2024年12月18日朝刊掲載)