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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月中旬 焦土に雪 食糧・燃料不足

 1945年12月中旬。被爆後の焼け跡が広がる広島市内に雪が降った。当時の中国新聞によれば、ほぼ例年並みの11日に初雪がちらつき、18日には1・3センチ積もった。17日から18日にかけての最低気温はマイナス1・8度、平均気温は1・6度と冷え込んだ。

 積雪を伝えた19日付の記事は「バラック生活者も本格的冬の来襲にそなへて萬端の準備をなさるが御肝心」と呼びかけたが、物資の不足は深刻だった。同じ日に、「戦災者一千人の声」の見出しで、広島の公務員や会社員、学校の教員・生徒、主婦など千人に聞いたアンケートの結果も載っている。

 「市民は今、何を欲しているか」の問いに対し、回答のトップは米などの「主食の増配」(28%)だった。当時、米の不作や、海外からの復員、引き揚げなどで全国的に食糧不足に見舞われ、主食の配給の遅れや取り消しも生じていた。

 交通に関わる「輸送の緩和」(14%)、暖をとる燃料などの「薪炭の配給」(11%)が続いた。教育関係では、「学校施設の整備復旧」(9%)や「雑誌教科書其(その)他書籍類の本」(5%)が挙がった。「衣料その他夜具履物傘の配給」(8%)「簡易住宅の早急建設」(6%)「映画館その他娯楽機関の設置」(6%)などもあった。

 アンケートでは「食糧飢饉(ききん)はくるか」とも尋ね、「飢饉必至」の回答は86%に上った。記事は戦災者の置かれた状況をこう伝え、行政側に対策を迫った。「『今のお役所はてんでもうあてになりません』とバラック居住者の誰もが一応さう当局に愛想をつかしてゐるやうでやはり他にあてにするもののないといふのが戦災者の現状である」  (山下美波)

(2024年12月19日朝刊掲載)

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