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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月ごろ 戦災者が共同浴場要望

 1945年12月ごろ。木造の家や店がことごとく消えた広島市中心部の焼け跡に、ぽつんと立つ煙突が目立った。銭湯の跡もあった。

 「ピカドン以来広島市民が困ったもの」について生活者視点で書いた11月19日付本紙コラム「白雲録」は、特に「町湯が潰(つぶ)れてしまったこと」を挙げている。「廃虚の中にある仕事場は想像以上に塵埃(じんあい)で一杯」のためで「度々入浴がしたい」状況だった。家がなく、寄宿舎や下宿で暮らす人はなおさらだと訴えた。

 12月10日には「市内の各地に残存する兵舎を戦災者の共同浴場としたいから即時無償で払下げること」などを求める決議文が、広島県に出された。「戦災者の最低生活を一日も早く確保されたい」と「広島戦災者同盟」がまとめた。

 この組織は7日、己斐町(現西区)で結成式を開いた。執行委員だった仁井田教一さんたちを取材した本紙連載「炎の系譜」(65年)によれば、東京や大阪で先に生まれた戦災者同盟がヒントになった。「政府は何もしてくれないのだから、自分たちの力で戦災者を救おう」と考えた。

 7日は道行く人にメガホンで参加を呼びかけ、結成式会場のバラック建ての芝居小屋は超満員だったという。3日後に県に出した決議文には、深刻な住宅不足の中、旧広島陸軍兵器補給廠(しょう)(現南区)などの倉庫を「共同住宅」として開放する要望なども盛り込んだ。

 提出2日後の12日、県が回答した。「共同浴場」については「某部隊の浴場用のボイラーが2個あるから即時無償で払下げる」。倉庫については今後使う計画のない棟は戦災者のためにすぐに開放するとして担当課に連絡するよう促した。(編集委員・水川恭輔)

(2024年12月20日朝刊掲載)

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