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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月23日 私財で戦災児育成所

「父となれ、母となれ」を信条に

 1945年12月23日。広島県五日市町(現広島市佐伯区)に、「広島戦災児育成所」が開設された。原爆に親を奪われた孤児たちを「放置できない」と、仏教者の山下義信さん(89年に95歳で死去)が県農事試験場跡の土地と建物を借り、私財を投じて造った。

 日々の生活を記録した「育成日誌」によると、23日午後7時ごろ、7人の戦災児が育成所に着いた。県北の集団疎開先に取り残された大手町国民学校(廃校)などの児童。職員が夜食にあめやミカンを配った。

海岸散策を喜ぶ

 児童が寝た後、山下さんが職員にあいさつしたといい「その任の大きさに感銘。児童達の当所収容の幸福を思ひつつ職員一同十時過ぎ就寝」と記されている。24日は身体測定後に井口海岸を散策した。「海を久し振りに見て児童達大喜び」。裏山に登って日の出を拝んだり、ドッジボールを楽しんだりもした。

 28日は、中島国民学校(現中区の中島小)など爆心地近くの学校から疎開していた12人が入ったが「全員に頭虱(あたまじらみ)あり(略)毛布全部硫黄ニテイブス」とある。山下さんは育成所の歴史をまとめた全35章の文書「育成の若干の記録」で「DDT(殺虫剤)が入るまで、実に困難で悩ましいシラミ退治の努力が続いた」(第29章)と振り返っている。

自身も次男失う

 山下さんは45年9月に復員。市の保健課長を務めていた旧友から、比治山国民学校(現南区の比治山小)の迷子収容所の窮状を聞いた。「私の心に思わず憤然たるものが燃えてきた。これは放置できないと心に叫ぶものがあった」(第1章)。自身も学徒動員に出た次男を原爆で失っていた。県農事試験場跡を借りる際は、楠瀬常猪知事にかけ合った。

 育成所は開所式を46年1月19日に開催。所内には幟町国民学校(現中区の幟町小)の分教場が48年3月まで置かれた。「父となれ、母となれ」を信条に、子ども10人ほどに教職員1人がついて共同生活を送り、山下さん夫妻は「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ばれた。53年に市へ移管されるまで171人が身を寄せた。(山下美波)

(2024年12月23日朝刊掲載)

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