祖母の被爆体験 受け止める 「家族伝承者」目指し記者が聞き取り
24年12月23日
高齢となった被爆者に代わって子や孫たちが被爆体験を語り継ぐ広島市の「家族伝承者」制度。本年度は広島県内外の27人が研修を受け、原爆被害の実情や説話の方法などを学んできた。
私は今、入市被爆した祖母新山与志子(90)から、被爆死したとみられる曽祖父の貢=当時(47)=について詳しく聞き取っている。祖母にとっては父親だ。疎開させていて焼失を免れた写真を見ながら記憶をたどってもらい、当時の家族の状況を整理し、講話するための原稿を少しずつ書き進めている。
1945年当時、曽祖父は爆心地から約1キロの上流川町(現中区)にあった日本勧業銀行広島支店に勤めていた。8月6日早朝に富士見町(同)の自宅を出て銀行に向かったとみられるが、いまだに骨さえ見つからない。広島原爆戦災誌によると、同支店では支店内に数人がいて、水主町(同)での建物疎開作業に24人が動員されていたと推定されている。8人が即死、4人が数日内に死亡し、12人が行方不明だという。
当時10歳だった祖母は疎開先の可部(現安佐北区)にいて直爆を免れたが、父親を捜すため2日後に9歳上の姉と入市。惨状を目の当たりにした。廿日市市や似島(現南区)の救護所まで捜し歩いたが、消息はつかめないまま。遺体の顔を一人一人確かめた経験を「地獄だった」と顔をゆがめて話してくれた。
骨さえ見つけられなかった後悔から、祖母は長く原爆について語りたがらなかった。だが高齢になり、「伝承者」を目指す孫の私に「覚えていることは全て伝えておく」と懸命に記憶をたどってくれている。
私は「被爆3世」として祖母の思いを受け継ぐ責任を感じている。原稿が完成したら、実習を経て晴れて「家族伝承者」となる。祖母の気持ちを受け止め、核を巡る国内外の問題にも目を凝らしながら、被爆の実情を伝えられる発信者を目指したい。(新山京子)
(2024年12月23日朝刊掲載)
私は今、入市被爆した祖母新山与志子(90)から、被爆死したとみられる曽祖父の貢=当時(47)=について詳しく聞き取っている。祖母にとっては父親だ。疎開させていて焼失を免れた写真を見ながら記憶をたどってもらい、当時の家族の状況を整理し、講話するための原稿を少しずつ書き進めている。
1945年当時、曽祖父は爆心地から約1キロの上流川町(現中区)にあった日本勧業銀行広島支店に勤めていた。8月6日早朝に富士見町(同)の自宅を出て銀行に向かったとみられるが、いまだに骨さえ見つからない。広島原爆戦災誌によると、同支店では支店内に数人がいて、水主町(同)での建物疎開作業に24人が動員されていたと推定されている。8人が即死、4人が数日内に死亡し、12人が行方不明だという。
当時10歳だった祖母は疎開先の可部(現安佐北区)にいて直爆を免れたが、父親を捜すため2日後に9歳上の姉と入市。惨状を目の当たりにした。廿日市市や似島(現南区)の救護所まで捜し歩いたが、消息はつかめないまま。遺体の顔を一人一人確かめた経験を「地獄だった」と顔をゆがめて話してくれた。
骨さえ見つけられなかった後悔から、祖母は長く原爆について語りたがらなかった。だが高齢になり、「伝承者」を目指す孫の私に「覚えていることは全て伝えておく」と懸命に記憶をたどってくれている。
私は「被爆3世」として祖母の思いを受け継ぐ責任を感じている。原稿が完成したら、実習を経て晴れて「家族伝承者」となる。祖母の気持ちを受け止め、核を巡る国内外の問題にも目を凝らしながら、被爆の実情を伝えられる発信者を目指したい。(新山京子)
(2024年12月23日朝刊掲載)