[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 苦しみ破いた退学証明
24年12月22日
1945年12月。当時13歳で、広島県東部の旧制中学2年だった中村博さん(2016年に84歳で死去)の退学証明書が発行された。学徒動員先で被爆。体調が優れず、級友からの心ない言葉にも苦しみ、自ら退学を願い出た。
中村さんは志願し、広島市西蟹屋町(現南区)にあった広島鉄道局の広島第一機関区で運転手見習いとして働いていた。8月6日は体調を崩していて、爆心地から約1・8キロの宿舎で被爆。無傷だったため、直後から負傷者の救護や遺体の収容作業に当たった。8日、列車を乗り継いで実家に戻った。
トラックに積む際に傷んだ遺体の骨をつかんだ感触を忘れることはなかった。家族が迎えてくれたが、「喜んでくれるのに、私は皆んなと手が握れない」(手記)。
帰宅後、体調が悪い日が続いた。1カ月ほどたった時、起きると枕が真っ黒に。毛髪が抜け落ち、「一週間くらいで丸坊主になってしまった」(09年刊「『空白の十年』被爆者の苦闘」)。10月には、食事中に歯茎に食べ物が当たると血が止まらなくなり、おかゆをすすった。
仲が良かった友人は「ピカに遭った人間は髪が抜けて、血を吐いて死ぬ」「触るとうつる」と近寄らなくなった。中村さんは朝、家を出ても登校せず、近くの山などで過ごす日が1カ月以上続いた。12月31日付の退学届を出し、受理された。
「本当は学校に行って、将来は中学校の先生になるのが夢だった」。悔しさのあまり、退学証明書を破いた。捨てたと思っていたが、亡くなる9カ月前に自宅のたんすの奥から下半分を見つけた。「在籍した証し」だった。(山本真帆)
(2024年12月22日朝刊掲載)
中村さんは志願し、広島市西蟹屋町(現南区)にあった広島鉄道局の広島第一機関区で運転手見習いとして働いていた。8月6日は体調を崩していて、爆心地から約1・8キロの宿舎で被爆。無傷だったため、直後から負傷者の救護や遺体の収容作業に当たった。8日、列車を乗り継いで実家に戻った。
トラックに積む際に傷んだ遺体の骨をつかんだ感触を忘れることはなかった。家族が迎えてくれたが、「喜んでくれるのに、私は皆んなと手が握れない」(手記)。
帰宅後、体調が悪い日が続いた。1カ月ほどたった時、起きると枕が真っ黒に。毛髪が抜け落ち、「一週間くらいで丸坊主になってしまった」(09年刊「『空白の十年』被爆者の苦闘」)。10月には、食事中に歯茎に食べ物が当たると血が止まらなくなり、おかゆをすすった。
仲が良かった友人は「ピカに遭った人間は髪が抜けて、血を吐いて死ぬ」「触るとうつる」と近寄らなくなった。中村さんは朝、家を出ても登校せず、近くの山などで過ごす日が1カ月以上続いた。12月31日付の退学届を出し、受理された。
「本当は学校に行って、将来は中学校の先生になるのが夢だった」。悔しさのあまり、退学証明書を破いた。捨てたと思っていたが、亡くなる9カ月前に自宅のたんすの奥から下半分を見つけた。「在籍した証し」だった。(山本真帆)
(2024年12月22日朝刊掲載)