[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 三輪トラック生産再開
24年12月21日
1945年12月。爆心地から約5キロ離れた広島県府中町の東洋工業(現マツダ)が、三輪トラックの生産を再開した。資材不足の中、社内外から部品をかき集めて10台を完成させた。
東洋工業は、広島市内で建物疎開の作業に当たるなどしていた従業員119人を原爆で亡くした。工場は一部損壊にとどまったが、生産は完全に停止。直後から、求めに応じて県や報道機関に建物を貸した。
一方で、後の社長となる松田恒次さん(70年に74歳で死去)たちは被爆1カ月後、生産に向けて福岡県久留米市の工場などを訪れ、資材集めに動いていた。戦時下で同社は軍用の側車付き二輪車や小銃を手がけたが、「いち早く民需転換をはかり、あらためて三輪トラックを軸として社業の回復をはかる方針を固めた」(72年刊の「松田恒次追想録」)。
三輪トラックは東洋工業が最初に造った自動車で31年に発売。同時期に三輪トラックに参入していたメーカーの大半は主要部品を輸入品に頼っていたが、貨物運搬の主力になると見込んで、エンジンをはじめ、全ての部品を「純国産」にこだわっていた。
被爆後に生産を再開したのはGA型で、38~49年に販売された。46年2月に入社した山本健一元社長(2017年に95歳で死去)は、05年の本紙の取材に「造るはしから売れた。みんなには広島の復興に貢献しているんだ、という気概と活気があった」と当時を振り返っている。
車両は物資輸送の必需品となり、三輪トラックは広島の復興期の物流を支えた。生産台数は徐々に増えて47年には年間2430台となり、三輪トラック業界のトップになる。(山本真帆)
(2024年12月21日朝刊掲載)
東洋工業は、広島市内で建物疎開の作業に当たるなどしていた従業員119人を原爆で亡くした。工場は一部損壊にとどまったが、生産は完全に停止。直後から、求めに応じて県や報道機関に建物を貸した。
一方で、後の社長となる松田恒次さん(70年に74歳で死去)たちは被爆1カ月後、生産に向けて福岡県久留米市の工場などを訪れ、資材集めに動いていた。戦時下で同社は軍用の側車付き二輪車や小銃を手がけたが、「いち早く民需転換をはかり、あらためて三輪トラックを軸として社業の回復をはかる方針を固めた」(72年刊の「松田恒次追想録」)。
三輪トラックは東洋工業が最初に造った自動車で31年に発売。同時期に三輪トラックに参入していたメーカーの大半は主要部品を輸入品に頼っていたが、貨物運搬の主力になると見込んで、エンジンをはじめ、全ての部品を「純国産」にこだわっていた。
被爆後に生産を再開したのはGA型で、38~49年に販売された。46年2月に入社した山本健一元社長(2017年に95歳で死去)は、05年の本紙の取材に「造るはしから売れた。みんなには広島の復興に貢献しているんだ、という気概と活気があった」と当時を振り返っている。
車両は物資輸送の必需品となり、三輪トラックは広島の復興期の物流を支えた。生産台数は徐々に増えて47年には年間2430台となり、三輪トラック業界のトップになる。(山本真帆)
(2024年12月21日朝刊掲載)