『潮流』 弾薬庫ができる前
24年12月14日
■特別論説委員 岩崎誠
ちょうど25年前の今ごろだ。米軍基地と足元の地域の関わりを問う連載を取材中、東広島市八本松町で話を聞いたお年寄りの家に、のどかな田園風景の絵が飾られているのに気付いた。かつて自宅があった一帯だが、もう近づくことすらできない―。米軍川上弾薬庫の一部となったからだ。
理不尽な話というほかない。1940年6月、呉のある海軍大佐が住民を集め、「今年いっぱいで集落ごと立ち退くように」と通告した。44戸が用地買収の対象で、大戦中に弾薬庫が完成。終戦後に米軍が接収する。
住民側は元所有地の払い下げ運動を始める。不要になれば返すという大佐の説明もあった。後の首相、池田勇人衆院議員は「機運が熟せば力になる」と語ったと聞く。
弾薬庫は朝鮮戦争後の57年に遊休状態となる。返還のチャンスだったのに日本政府は動かず、10年後にベトナム戦争のために使用が再開された。同じく米軍の弾薬庫だった北九州市の山田緑地が72年に返還され、市民の憩いの場となったのに対して「カワカミ」は極東最大級の弾薬庫として強化され、今に至る。
あの悲劇的な立ち退き以来、地域と隔絶された川上弾薬庫が、有機フッ素化合物(PFAS)の発生源として疑われる。湯崎英彦広島県知事は米大使館に調査を直談判した。どこまで本気で対応するだろう。沖縄の基地などと同様に日米地位協定の壁も立ちはだかる。
不安を抱く住民への誠実な対応は協定うんぬん以前に人として当然のことだろう。振り返れば、東広島市は弾薬庫返還を長年求めてきたが、いつしか単市で要望しなくなった。諦めるべきではない。弾薬庫ができる前の平穏な暮らしを思う。
(2024年12月14日朝刊掲載)
ちょうど25年前の今ごろだ。米軍基地と足元の地域の関わりを問う連載を取材中、東広島市八本松町で話を聞いたお年寄りの家に、のどかな田園風景の絵が飾られているのに気付いた。かつて自宅があった一帯だが、もう近づくことすらできない―。米軍川上弾薬庫の一部となったからだ。
理不尽な話というほかない。1940年6月、呉のある海軍大佐が住民を集め、「今年いっぱいで集落ごと立ち退くように」と通告した。44戸が用地買収の対象で、大戦中に弾薬庫が完成。終戦後に米軍が接収する。
住民側は元所有地の払い下げ運動を始める。不要になれば返すという大佐の説明もあった。後の首相、池田勇人衆院議員は「機運が熟せば力になる」と語ったと聞く。
弾薬庫は朝鮮戦争後の57年に遊休状態となる。返還のチャンスだったのに日本政府は動かず、10年後にベトナム戦争のために使用が再開された。同じく米軍の弾薬庫だった北九州市の山田緑地が72年に返還され、市民の憩いの場となったのに対して「カワカミ」は極東最大級の弾薬庫として強化され、今に至る。
あの悲劇的な立ち退き以来、地域と隔絶された川上弾薬庫が、有機フッ素化合物(PFAS)の発生源として疑われる。湯崎英彦広島県知事は米大使館に調査を直談判した。どこまで本気で対応するだろう。沖縄の基地などと同様に日米地位協定の壁も立ちはだかる。
不安を抱く住民への誠実な対応は協定うんぬん以前に人として当然のことだろう。振り返れば、東広島市は弾薬庫返還を長年求めてきたが、いつしか単市で要望しなくなった。諦めるべきではない。弾薬庫ができる前の平穏な暮らしを思う。
(2024年12月14日朝刊掲載)