[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月23日 流川教会 Xマス礼拝
24年12月24日
「鐘の音 真の慰めであり励し」
1945年12月23日の日曜。広島市上流川町(現中区)の広島流川教会がクリスマス礼拝を開いた。爆心地から約900メートルで建物は外壁だけを残して崩れたため、会場は谷本清牧師(86年に77歳で死去)が「事務所」として借りていた牛田国民学校(現東区の牛田小)の裏の教会員宅。これを機に、原爆で途絶えていた定期集会を再開した。
礼拝を前に、「教会通信」の発行も開始。谷本牧師が手書きしてはがきにガリ版で刷り、教会員の安否を確かめながら配り歩いたとみられる。13日付は「八月六日の空襲以来、我が教会諸集会は休会致して居りましたが来る十二月二十三日(日)降誕祭礼拝をきっかけに諸般の定期集会を再開いたします」と案内。23人の教徒の消息も伝えた。
16日付は「クリスマスの鐘の音は一敗地にまみれて放心、虚脱状態に陥れる我が同胞にとりて真の慰めであり励しである。敗戦日本の永遠の希望はクリスマスにこそあれ」と訴える。午前10時からの礼拝に続き、午後1時半からは祝う会もあり、「進駐軍を迎へて」と書き添えた。
教会は1887年創立。原爆で教会員75人が犠牲となった。谷本牧師は己斐(現西区)の知人宅で被爆後、多くの負傷者であふれた泉邸(現在の縮景園)などで救護に当たった。
23日当日は50人ほどが参加し、谷本牧師の説教の後、教会員によるクリスマスの歌の披露もあった。向井希夫牧師(64)は「戦争が終わって自由に礼拝ができる、平和をかみしめたはず。45年のクリスマスは教会にとっても大きな意味がある」と思いをはせる。(山本真帆)
(2024年12月24日朝刊掲載)