[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 国宝の木造天守 姿なく
24年12月25日
1945年12月。広島県警察部写真班員の川本俊雄さんは、爆心地から北東約790メートルの広島城内の中国軍管区司令部跡でシャッターを切った。司令部には、広島壊滅の「一報」を発信したとされる防空作戦室があった。北側にそびえていた天守は崩壊していた。
1589年に毛利輝元が築城を始めた広島城。ほぼ創建当時の姿を残していた木造天守は国宝で広島の名所の一つだったが、ほかの門ややぐらは徐々に姿を消し、軍事施設が立ち並んでいた。
本丸跡に置かれた中国軍管区司令部の防空作戦室は半地下の鉄筋造り。空襲下の作戦・情報本部として使われた。動員された比治山高等女学校(現比治山女子中高)3年生の90人が三交代で詰め、昼夜を問わず敵機襲来などの情報伝達を担った。
当時14歳の岡ヨシエさん(2017年に86歳で死去)は交換機を使い、警報を放送局や軍事施設に知らせる係。8月6日朝、「8時13分、広島県・山口県警戒警報発令」と読みかけた時、爆風に飛ばされた。外に出ると市街は廃虚に。電話がつながった福山の部隊に「広島が全滅しています」との内容を伝え、級友と共に広島壊滅を外部に発した一報とされる。
60人以上の生徒が犠牲になる中、岡さんは18日まで広島城一帯で級友の看護や整地作業に当たった。「美しい純粋な気持を持って清らかな少女は最後迄(まで)仕事のことばかり口にして死んで行った」と、学校の同期生の手記集「炎のなかに」(69年刊)に記している。
7日夜には月を見て「昨日迄そびえていた五層の天守閣はもうそこにはない。くずれおちてしまったその上に侘(わ)びしい月の光‼まさに荒城の月でなくてなんであろう」。天守の木材は年末にかけて減り、市民が持ち帰ったとされる。
岡さんは被爆40年以上たってから周囲の勧めで証言を始め、晩年まで活動した。記憶を受け継ぐ波多野愛子さん(72)=広島市安芸区=は「岡さんは戦後しばらく、級友たちが倒れていた場所に線香や花を手向けて追悼したそうです」と伝えている。(山下美波)
(2024年12月25日朝刊掲載)
1589年に毛利輝元が築城を始めた広島城。ほぼ創建当時の姿を残していた木造天守は国宝で広島の名所の一つだったが、ほかの門ややぐらは徐々に姿を消し、軍事施設が立ち並んでいた。
本丸跡に置かれた中国軍管区司令部の防空作戦室は半地下の鉄筋造り。空襲下の作戦・情報本部として使われた。動員された比治山高等女学校(現比治山女子中高)3年生の90人が三交代で詰め、昼夜を問わず敵機襲来などの情報伝達を担った。
当時14歳の岡ヨシエさん(2017年に86歳で死去)は交換機を使い、警報を放送局や軍事施設に知らせる係。8月6日朝、「8時13分、広島県・山口県警戒警報発令」と読みかけた時、爆風に飛ばされた。外に出ると市街は廃虚に。電話がつながった福山の部隊に「広島が全滅しています」との内容を伝え、級友と共に広島壊滅を外部に発した一報とされる。
60人以上の生徒が犠牲になる中、岡さんは18日まで広島城一帯で級友の看護や整地作業に当たった。「美しい純粋な気持を持って清らかな少女は最後迄(まで)仕事のことばかり口にして死んで行った」と、学校の同期生の手記集「炎のなかに」(69年刊)に記している。
7日夜には月を見て「昨日迄そびえていた五層の天守閣はもうそこにはない。くずれおちてしまったその上に侘(わ)びしい月の光‼まさに荒城の月でなくてなんであろう」。天守の木材は年末にかけて減り、市民が持ち帰ったとされる。
岡さんは被爆40年以上たってから周囲の勧めで証言を始め、晩年まで活動した。記憶を受け継ぐ波多野愛子さん(72)=広島市安芸区=は「岡さんは戦後しばらく、級友たちが倒れていた場所に線香や花を手向けて追悼したそうです」と伝えている。(山下美波)
(2024年12月25日朝刊掲載)