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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 母らの供養に惨禍記録

 1945年12月。広島市の写真家、佐々木雄一郎さん(80年に63歳で死去)が、市中心部の廃虚と広島県産業奨励館(現原爆ドーム)を撮った。原爆で亡くした母や兄弟の供養の思いから、惨禍の街を記録し続けていた。

 その1枚には焼き尽くされた本通り商店街を行き交う人の向こうに、奨励館や広島県商工経済会(現広島商工会議所)のビルが写る。つながる別の1枚には広島護国神社の鳥居も見える。原爆投下後、本川町(現中区)、鉄砲町(同)などの家族が住んでいた場所や学校、広島駅前、崩れた民家にレンズを向けた。

 佐々木さんは日本写真公社に勤め、内閣情報部が発行する「写真週報」のカメラマンだった。8月6日は東京におり、9日に広島へ戻って被爆の惨状を見る。今の西十日市町(現中区)にあった実家は跡形もなかった。

 いったん上京後、公社解散に伴う退職金代わりのフィルム10本と、私物のカメラを携えて18日に帰郷。必死に家族を捜したが、母や兄弟、おい、めいたち13人が犠牲になった。「せめて供養のために、肉親が死亡した場所を記録しておこうとカメラを取り出し、いつしか手当たり次第にシャッターを切っていた」(77年刊の原爆写真集「ヒロシマは生きていた」)

 戦後は写真店を営みながら、心身の傷に苦しむ被爆者の姿や街の復興を撮り続けた。とりわけ、幼い頃から見ていたドームは生涯の被写体の一つとなった。

 写真が被爆の「生き証人」となるよう願ったが、枚数を重ねても広島の実態を伝えるのに「これだけで十分だとは思わないし、満足もしていない」(同)。亡くなるまでの30年余りで10万枚を超えた。(山本真帆)

(2024年12月26日朝刊掲載)

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