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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 福屋 立ち飲み販売準備

 1945年12月。広島市八丁堀(現中区)の福屋百貨店は、元日に始める酒の立ち飲み販売の準備を進めた。爆心地から約710メートルで、廃虚の中に鉄筋建物の店舗が焼け残っていた。被爆直後に負傷者の収容先になった時期もあったが、経営陣が再建を決意した。

 立ち飲み用には、市から配給された業務用清酒を牛乳瓶に入れて温め、1本2円で売ることにした。1階の片隅に、拾ったれんがでかまどを作り、焼け残った木材で湯を沸かした。

 来店客の様子を「福屋五十年史」(80年刊)は「疲れはてていた市民の列からは『あけましておめでとう』の声もきかれなかったが、牛乳瓶で飲む1本2円の酒は、人々の心に深く渗(し)みわたった」と記す。1日分の割り当てはたちまち売り切れた。販売を担った10人ほどの従業員も再建へ勇気づけられたという。

 福屋は29年開店の広島初の百貨店。38年には、地上8階地下2階建ての新館が完成した。原爆により、出勤途中や店内にいた従業員31人を失い、店舗内は全焼。被爆後の約1カ月は市の「臨時伝染病院」となり、下痢や血便の症状がある被爆者を収容した。

 近くの金座街に実家があった牧野ミヤ子さん(90)=廿日市市=は戦前の福屋を「地下の食品売り場に行くと、エプロンをかけてもらえるのがうれしくて」と懐かしむ。原爆で両親を失い、祖母たちと実家近くにバラックを建てて約1年暮らしたといい「街が焼き尽くされる中、福屋はポツンと姿を残していました」。

 福屋は9月の枕崎台風で地下が水没する被害にも遭ったが、「広島復興の足がかりは福屋から」(五十年史)と幹部たちは使命感を高めた。10月に庚午町(現西区)の北川源太郎常務の自宅に「福屋戦災復興仮事務所」を設置。売掛金の回収や取引先との再開交渉を進め、店内の整理にも取りかかった。立ち飲み販売を経て、営業再開を果たすのは46年2月になる。(山本真帆)

(2024年12月27日朝刊掲載)

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