寄稿 ノーベル平和賞と被爆80年 喜びと恥ずかしさをバネに 日本被団協代表理事 田中聰司
24年12月27日
オスロでの授賞式(10日)から帰って2週間、感想を聞かれるたびに「喜び半分、恥ずかしさと情けない気持ちが半分」と答えている。授賞に込められた被爆者への期待は当然、被爆国にも向けられたものだが、その認識と反応は日本政府と大きくずれているからだ。国際社会に「恥ずかしくない被爆国」を求めて、被爆80年へ向かいたい。
授賞を知った時、真っ先に思い浮かんだのが先人たちだった。初の原水爆禁止世界大会が実現した中学生の時、ラジオの前で涙を拭っていた母、大会の励みを国会請願へ日本被団協結成へとつなげた藤居平一さん、運動理念を築いた森滝市郎さん…。小さな遺影をポケットに授賞式に参加した。
「荒城の月」の演奏が会場に流れた時、愛唱していた日詰忍さん(原水禁広島母の会)が、森滝さんと座り込む凛(りん)とした着物姿が浮かんだ。田中熙巳(てるみ)代表委員の演説を聞きながら、新聞記者時代から関わってきた被団協の面々、あまたの死没者たちが脳裏を巡った。彼らの足跡が人類史に刻まれることを願いながら。
日本被団協は原水禁運動、労働運動に支えられ、被爆30年ごろからはNGO(非政府組織)を頼りに国際活動を定着させ、市民運動の力も借りた。帰国のあいさつ回りをしながら活動の持続、発展は国内外の多くの人々のおかげと改めて痛感する。
私たち代表団三十数人は5日間、現地に滞在。公式行事以外にそれぞれが大学や地域などで交流した。私は韓国とブラジルから代表団に加わった3人の被爆者と一緒に、高校生平和大使や現地の高校生に被爆体験を語った。特に、3カ国の被爆者と慶賀の場で親交を深めることができたのも、藤居さんが唱えていた「世界被団協」構想の一過程として今後につなげていきたい。
「被爆者が5~10年後にはいなくなると聞いて驚いた」と言う高校生に私は続けた。「それまでに人類が全滅するかもしれない」と。核保有国のリーダーたちは、このセレモニーにどれほど目を向けただろうか。戦争に忙しく、核軍備競争に没頭し、自己中心の政治に奔走している。戦争を止め、核軍縮を促す国際的機能は働いていない。人類の残り時間「90秒」(終末時計)の核リスクを正しく受け止めねばならない。継承活動ものんびりしてはいられないと。
日本大使館には歓迎レセプションのほか、同行、介助などのお世話をいただいた。東京での要望交渉でのそっけない官僚の態度と大違い。かたくなな外交姿勢を人間的に、弾力的に見直す機会にならないか。核兵器禁止条約の批准国・地域は73に達したのに日本はいつまで、そっぽを向いているつもりだろう。こんな状態では海外へ出かけて訴えることをためらう気にもなるのは私だけだろうか。半世紀前、「非核三原則」を提唱して日本初のノーベル平和賞を受けた佐藤栄作元首相は、その後、核持ち込み密約の露呈などで汚名を残した。恥を知ることも失ったような国になっていないか。
3回目の締約国会議(来年3月)にこそ、石破茂首相にオブザーバー参加をしてもらいたい。中満泉・国連事務次長も「ドイツと同様、米国に関係なく独自判断できる」と促す。首相も就任前から、その姿勢を見せていたが「参加の理由を明確にしないと」などと逃げている。非核三原則を逸脱する「核共有論」も危うい。首相は私が抱く「恥ずかしい国」に、どう応えるのだろうか。
箕牧(みまき)智之代表委員と原爆慰霊碑に参拝し、湯崎英彦広島県知事、松井一実広島市長に報告し、今後の決意を語り合った。同じ時期に広島県議会が首相にオブザーバー参加を要請する決議案の採択を自民議連の反対で見送った。被爆地から首相の足を引っ張るような行為は誠に残念でならない。
参加すべき理由は、条約の趣旨に理解を、核被害者の援護に賛同を表明し、被爆国の立ち位置を明確に説明する責任を果たすことだ。理論家の首相には納得できるはずである。これを足場に条約に関与し、核保有国を誘導する道筋を描く。この環境づくりを進めるため国会、各政党は本気で審議を始めてもらいたい。受賞演説に触れられなかったが、米国の原爆投下の謝罪、償いの問題整理や核禁条約の「被爆者の援助」と国家補償の整合性を図る課題もある。
記者時代の2001年、オスロを訪ねて取材した草の根運動「核兵器はノー」とくしくも現地で巡り合えた。グナリ・ジョンソン代表と被爆80年の交流協議を約束し、縁をつなげたのはうれしい。1月には受賞を今後に生かす記念イベントが広島の被爆者7団体などで計画されている。何よりも、核保有国を動かす知恵を絞らなければならない。
たなか・さとし
1944年下関市生まれ。広島市で被爆。家族・親族12人が被爆死。早稲田大卒。中国新聞社で報道部記者、論説委員などを務めた。広島県被団協理事、広島被爆者団体連絡会議事務局長、ヒロシマ学研究会世話人。「日本被団協50年史」「広島市原爆被爆者援護行政史」など執筆。
(2024年12月27日朝刊掲載)
授賞を知った時、真っ先に思い浮かんだのが先人たちだった。初の原水爆禁止世界大会が実現した中学生の時、ラジオの前で涙を拭っていた母、大会の励みを国会請願へ日本被団協結成へとつなげた藤居平一さん、運動理念を築いた森滝市郎さん…。小さな遺影をポケットに授賞式に参加した。
「荒城の月」の演奏が会場に流れた時、愛唱していた日詰忍さん(原水禁広島母の会)が、森滝さんと座り込む凛(りん)とした着物姿が浮かんだ。田中熙巳(てるみ)代表委員の演説を聞きながら、新聞記者時代から関わってきた被団協の面々、あまたの死没者たちが脳裏を巡った。彼らの足跡が人類史に刻まれることを願いながら。
日本被団協は原水禁運動、労働運動に支えられ、被爆30年ごろからはNGO(非政府組織)を頼りに国際活動を定着させ、市民運動の力も借りた。帰国のあいさつ回りをしながら活動の持続、発展は国内外の多くの人々のおかげと改めて痛感する。
私たち代表団三十数人は5日間、現地に滞在。公式行事以外にそれぞれが大学や地域などで交流した。私は韓国とブラジルから代表団に加わった3人の被爆者と一緒に、高校生平和大使や現地の高校生に被爆体験を語った。特に、3カ国の被爆者と慶賀の場で親交を深めることができたのも、藤居さんが唱えていた「世界被団協」構想の一過程として今後につなげていきたい。
「被爆者が5~10年後にはいなくなると聞いて驚いた」と言う高校生に私は続けた。「それまでに人類が全滅するかもしれない」と。核保有国のリーダーたちは、このセレモニーにどれほど目を向けただろうか。戦争に忙しく、核軍備競争に没頭し、自己中心の政治に奔走している。戦争を止め、核軍縮を促す国際的機能は働いていない。人類の残り時間「90秒」(終末時計)の核リスクを正しく受け止めねばならない。継承活動ものんびりしてはいられないと。
日本大使館には歓迎レセプションのほか、同行、介助などのお世話をいただいた。東京での要望交渉でのそっけない官僚の態度と大違い。かたくなな外交姿勢を人間的に、弾力的に見直す機会にならないか。核兵器禁止条約の批准国・地域は73に達したのに日本はいつまで、そっぽを向いているつもりだろう。こんな状態では海外へ出かけて訴えることをためらう気にもなるのは私だけだろうか。半世紀前、「非核三原則」を提唱して日本初のノーベル平和賞を受けた佐藤栄作元首相は、その後、核持ち込み密約の露呈などで汚名を残した。恥を知ることも失ったような国になっていないか。
3回目の締約国会議(来年3月)にこそ、石破茂首相にオブザーバー参加をしてもらいたい。中満泉・国連事務次長も「ドイツと同様、米国に関係なく独自判断できる」と促す。首相も就任前から、その姿勢を見せていたが「参加の理由を明確にしないと」などと逃げている。非核三原則を逸脱する「核共有論」も危うい。首相は私が抱く「恥ずかしい国」に、どう応えるのだろうか。
箕牧(みまき)智之代表委員と原爆慰霊碑に参拝し、湯崎英彦広島県知事、松井一実広島市長に報告し、今後の決意を語り合った。同じ時期に広島県議会が首相にオブザーバー参加を要請する決議案の採択を自民議連の反対で見送った。被爆地から首相の足を引っ張るような行為は誠に残念でならない。
参加すべき理由は、条約の趣旨に理解を、核被害者の援護に賛同を表明し、被爆国の立ち位置を明確に説明する責任を果たすことだ。理論家の首相には納得できるはずである。これを足場に条約に関与し、核保有国を誘導する道筋を描く。この環境づくりを進めるため国会、各政党は本気で審議を始めてもらいたい。受賞演説に触れられなかったが、米国の原爆投下の謝罪、償いの問題整理や核禁条約の「被爆者の援助」と国家補償の整合性を図る課題もある。
記者時代の2001年、オスロを訪ねて取材した草の根運動「核兵器はノー」とくしくも現地で巡り合えた。グナリ・ジョンソン代表と被爆80年の交流協議を約束し、縁をつなげたのはうれしい。1月には受賞を今後に生かす記念イベントが広島の被爆者7団体などで計画されている。何よりも、核保有国を動かす知恵を絞らなければならない。
たなか・さとし
1944年下関市生まれ。広島市で被爆。家族・親族12人が被爆死。早稲田大卒。中国新聞社で報道部記者、論説委員などを務めた。広島県被団協理事、広島被爆者団体連絡会議事務局長、ヒロシマ学研究会世話人。「日本被団協50年史」「広島市原爆被爆者援護行政史」など執筆。
(2024年12月27日朝刊掲載)