[ヒロシマドキュメント 1946年] 1月 京橋川河岸にバラック
25年1月4日
1946年1月。広島市の広島駅近くの京橋川河岸の焼け跡に、バラックがぽつぽつと姿を見せていた。写真が好きだった保田守吉さん(84年に69歳で死去)は、柳橋(被爆時に焼失)の東詰め付近に広がる土手町(現南区)でシャッターを切った。バラックを背に立つ市民の服装などから正月ごろの撮影とみられる。
守吉さんは、土手町に程近い京橋町(現南区)にあった老舗「保田七兵衛商店」が実家だった。江戸時代から続く造り酒屋で銘柄は「園の白菊」。しょうゆも造っていた。店を営んでいた兄仲蔵さん(86年に73歳で死去)が、一帯が焼き尽くされる状況を手記に書き残している。
45年8月6日に米軍が原爆を落とした時、仲蔵さんは爆心地から約1・6キロの店のそばの自宅で朝食中だった。崩れた壁の下敷きになり、母と姉に助け出された。
警防団の分団長を務めており、近くの詰め所に向かったが、倒壊していた。消火のためのポンプを積んだ車両は下敷きになって使えなかった。初めは小さかった火もあちこちで本格的な火災となって猛威を振るい、「燃えるにまかせる状態であった」(手記)。詰め所の裏に畳を敷いて棒に蚊帳をつり、そこで寝泊まりしながら団員仲間と負傷者の救護を続けた。
守吉さんは移動中に己斐町(現西区)で被爆。年末には仲蔵さんと爆心地近くを歩き、広島護国神社の倒れた鳥居などを撮影していた。焼失した実家跡で変わり果てた庭にもカメラを向けた。
保田七兵衛商店の酒造りは再起できず、廃業に至る。仲蔵さんの長男訓雄さん(77)=東区=は「父は原爆についてほとんど話さなかった。思い出したくなかったんだと思います」。(編集委員・水川恭輔)
(2025年1月4日朝刊掲載)
守吉さんは、土手町に程近い京橋町(現南区)にあった老舗「保田七兵衛商店」が実家だった。江戸時代から続く造り酒屋で銘柄は「園の白菊」。しょうゆも造っていた。店を営んでいた兄仲蔵さん(86年に73歳で死去)が、一帯が焼き尽くされる状況を手記に書き残している。
45年8月6日に米軍が原爆を落とした時、仲蔵さんは爆心地から約1・6キロの店のそばの自宅で朝食中だった。崩れた壁の下敷きになり、母と姉に助け出された。
警防団の分団長を務めており、近くの詰め所に向かったが、倒壊していた。消火のためのポンプを積んだ車両は下敷きになって使えなかった。初めは小さかった火もあちこちで本格的な火災となって猛威を振るい、「燃えるにまかせる状態であった」(手記)。詰め所の裏に畳を敷いて棒に蚊帳をつり、そこで寝泊まりしながら団員仲間と負傷者の救護を続けた。
守吉さんは移動中に己斐町(現西区)で被爆。年末には仲蔵さんと爆心地近くを歩き、広島護国神社の倒れた鳥居などを撮影していた。焼失した実家跡で変わり果てた庭にもカメラを向けた。
保田七兵衛商店の酒造りは再起できず、廃業に至る。仲蔵さんの長男訓雄さん(77)=東区=は「父は原爆についてほとんど話さなかった。思い出したくなかったんだと思います」。(編集委員・水川恭輔)
(2025年1月4日朝刊掲載)