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[ヒロシマドキュメント 1946年] 1月 一面に広がる焦土 空撮

 1946年1月。米軍カメラマンのウィリアム・ジョーンズさんは、広島市の航空写真を撮影した。爆心地の約1・5キロ北東にある常葉橋の北側付近から南向きにレンズを向け、一面に広がる焦土を目の当たりにした。爆心地から半径2キロ以内にあった建物は、ほとんどが全壊全焼していた。

 後に、保管していた写真を米国立空軍博物館に寄贈。91歳だった2017年、資料収集で渡米した原爆資料館(中区)の職員の聞き取りに応じた。福岡の飛行場に配置されていた45年12月末に広島の撮影を命令されたとし、空から見た印象をこう語った。

 「私が被害を見た際、それは壊滅的なものだった(略)ここでの数々の死について知ったとき、私はとても悲しくなった。私は広島、長崎への原爆投下を誇りに思わない。それが戦争を終わらせたのだとしても」

 「『なぜ?なぜ戦争が?なぜ?』と。私にはわからなかった。その時、私は泣き叫んだ。人間の非人道的な行いを見て、何度も泣き叫んだ」

 ジョーンズさんの写真には、全壊を免れた広島駅も写る。地上には、空から見えない市民の苦境があった。本紙は46年1月8日、駅前の無料休憩所を中心に6人の孤児たちがおり、寒さに震えながら寝泊まりしていると本人の名前を伏せて報じた。

 市内の時計店で育った16歳の少年は両親と祖母を原爆で奪われた。親戚一家も全滅して身寄りがなく、ご飯を一粒も食べられない日があるという。「夜は寒くてとても眠れない。ときどきお母さんの夢を見る」

 別の14歳の少年は住んでいた岡山市で6月に空襲に遭い、母が行方不明になった。父はすでに他界。親戚を頼ろうと広島に来たが、みんな被爆死したようで会えず、駅前で寝起きを始めた。「食物と、着物とお金がすこしほしい。今日はどこかのお姉ちゃんが握飯をくれたのでおいしかった」(編集委員・水川恭輔)

(2025年1月3日朝刊掲載)

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