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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月31日 非戦の思い 日記に

「来年から新生日本として生れ変る」

 1945年12月31日。当時14歳の新井俊一郎さん(93)=広島市南区=は、年賀状を出してラジオで除夜の鐘を聴いた。日記には、一年の終わりをこうつづった。「ああ、今日で千九百四十五年の古き年がすむのである。悪夢の年はすぎさった」

 東千田町(現中区)にあった広島高等師範学校付属中(現広島大付属中高)の1年生だった。食糧増産が任務となり、7月から原村(現東広島市)の寺社に泊まり込みの「農村動員」に出た。生徒たちは知る由もなかったが、空襲を危ぶむ教員が事実上の疎開になるよう考えた。

民主少年に転換

 8月6日、新井さんは学校への伝令を任され、被爆直後の広島市に入った。「市中はエンエンと燃えてゐた」(同日の日記)。付属中の校舎も焼失した。家庭の事情などで市内に残っていた1年生もおり、生徒・教職員計30人が被爆死した。

 その後、出汐町(現南区)の自宅から一時両親の実家のある埼玉県に避難し、11月に広島に再び戻った。1年生は原村の教順寺で合宿生活を送りながら授業を受けており、合流した。食糧不足のため、村内の旧陸軍演習場に何日も農作業に出向いた。

 新井さんは今、その頃を「軍国少年から民主少年に大転換した時期」と振り返る。ラジオからは、連合国軍総司令部(GHQ)が民主化を進めるために企画した戦前・戦中の日本の政治家や軍に関する番組「真相はかうだ」などが流れていた。

 何より、戦争の悲惨さをかみしめた。冬休みで帰省していた12月24日に付属中跡をあらためて訪れた。「友が大分戦死したのである。何とも言へぬ感じが胸一杯になる」(同日の日記)

元級友は被爆死

 当時付けていた日記帳をくれた広島一中(現国泰寺高)1年正木義虎さん(8月29日付本連載で紹介)は校舎で被爆し、23日後に亡くなった。市立中(現基町高)1年沓木明さん(8月6日付本連載で紹介)も建物疎開作業に出て被爆し、犠牲になった。2人とも広島師範学校男子部付属国民学校(現広島大付属東雲小)時代の級友だった。

 新井さんは大みそかの日記に「来年から、新生日本、自由日本として生れ変るのである」とも書いていた。読み返し、79年前の思いをこう語る。「若い自分たちが日本を白紙から何とかしなきゃならん。そして『もう戦争なんか、ごめん』という気持ちです」

 45年12月末までの広島の原爆犠牲者数は、市が76年に示した推計で14万人(誤差±1万人)に上る。市民の命を続々と奪い続けた白血球減少や出血などの急性放射線障害は、このころまでにおおむね収束したとされる。ただ、46年以降も、原爆被害者の心身の苦しみや生活の困窮は続く。(編集委員・水川恭輔)

(2024年12月31日朝刊掲載)

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