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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月末 祖国の名さえ明かせない悲劇

韓国人被爆者が帰国

 1945年12月末。当時26歳だった辛泳洙(シン・ヨンス)さん(99年に80歳で死去)が、今の韓国に帰国した。徴用されて広島に渡った末に、被爆。日本に身寄りはなく、さげすまれ、心身に傷を負っていた。

 向かったのは、生まれ育った北西部の平沢市。顔から首にかけてやけどを負い、左耳を失っていた。迎えた親には、激しく泣かれたという。

 製薬会社に勤めていた辛さんは、徴用されて42年に軍指定の関連会社に移り広島市に来た。45年8月6日、通勤のため幟町(現中区)の電停で路面電車を待っていた時に、閃光(せんこう)を浴びた。意識がもうろうとする中、似島(現南区)にいったん運ばれた後、病院へ移った。

 高熱が続き、周りの負傷者も相次ぎ亡くなり、生きた心地がしなかった。太平洋戦争の終戦が告げられて間もない時期に退院し、仲の良かった会社の専務家族の借家があった八幡村(現佐伯区)を目指した。

 半裸姿で空腹にも耐えながら電車に乗ると、居合わせた乗客から「ああくさい、あんなんは早う死んだほうがまし」と心ない言葉を浴びた。廿日市町(現廿日市市)の救護所に移って傷を癒やし、帰国にこぎ着けた。

 「ピカに灼(や)かれ、死の谷間から必死に這(は)いあがろうとした日々に私を打ちのめしたもの、それは単なる原爆の脅威だけではない。まさに人間による人間の侮蔑、祖国の名さえ明かすことのできない民族の悲劇でした」。82年刊の「被爆朝鮮・韓国人の証言」にそう寄せている。

 母国では、親や兄弟と農業をしながら暮らし、朝鮮戦争も経験した。生活困窮や徴用・徴兵などで朝鮮半島から日本に渡り、被爆した同胞たちと知り合った。原爆の後障害や貧困、差別に苦しみ、十分な治療を受けられないまま亡くなった人も少なくなかった。

 辛さんは、戦後帰国した韓国人に対する補償を日本政府に求め、67年に郭貴勲(クァク・クィフン)さんたちと韓国原爆被害者援護協会(現韓国原爆被害者協会)を結成し、会長に就任。70年に広島を訪れ、実情を訴えた。74年にはケロイドの切除手術を受け、在韓被爆者として初めて被爆者健康手帳を受け取った。

 「私たちはひとりびとり裸の団結をかため、残された力をふりしぼって、人間復権と自立を遂げたい」(同書)。長年の運動は、海外に暮らす被爆者への援護を開くきっかけとなった。

 長男の辛亨根(シン・ヒョングン)さん(70)は2011~14年に総領事として広島市に赴任した。「歴史はあまりにもひどい運命を父に背負わせた。父の体験したことを思うとつらい場所でもあった」。父の友人や支援者との出会いを通じて、その記憶と向き合った。

 韓国・朝鮮人は原爆で多数犠牲になったが、被害の全容は被爆から79年たった今も分かっていない。(山本真帆)

(2024年12月30日朝刊掲載)

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