[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月29日 餅つきなど正月準備進む
24年12月29日
1945年12月29日。中国新聞に、家族の餅つきを取り上げた「歳末スナップ」が載った。配給されたわずかなもち米を使い、祖母が餅をこねて母がもんだ。復員した息子ははちまきを巻いてきねを振り上げている。「焦土に響く餅搗(もちつき)の音は新生する民主主義日本のたくましい足音だ」と記す。
同日は、広島市が希望した寺社に鏡餅を配給するとの告知記事もあった。別の日の歳末スナップでは、羽子板を見せ合い正月の歌を口ずさむ子どもや、闇市で正月用品を買い求める市民の様子を紹介。広島の師走の光景だったカキ打ちは、9月の枕崎台風で被害を受けながら、ほそぼそと続いていた。
原爆で親を奪われた子どもたちを受け入れた広島県五日市町(現広島市佐伯区)の広島戦災児育成所も、新年を迎える準備をしていた。餅つきをした12月29日の「育成日誌」には「新年を迎へる楽しさ 児童達は今日の餅つきに一層の喜びを思った」。30日朝は餅入りの雑炊を味わい、教職員は正月の買い出しに向かった。31日は大掃除。夕食後に福引もした。
当時、広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の2年生だった矢野美耶古さん(93)=西区=の生家は宇品町(現南区)にあった神田神社で、被爆直後に負傷者を受け入れた。10月の秋祭りを機に、爆風で壊れた屋根を修復。正月には小豆の代わりにササゲの煮汁にもち米を浸して紅白餅を作って供えた。ただ、「新年を祝える気持ちにはなれなかった」
8月6日、現在の平和記念公園(中区)南側の建物疎開作業に動員されていた市女の1、2年生計541人が全滅した。腹痛で休んだ矢野さんは自宅で被爆し助かった。そのことを伝えると泣き崩れる級友の遺族がいた。大人から「非国民」「生き残り」と心ない言葉もかけられた。
「生きるのがつらかった」。戦争一色の世の中で育ち、家族と共に皇居方向へ敬礼し一日を始めていた生活は一変した。「原爆は、犠牲になった者も生き残った者も、地獄を味わうのです」(山下美波)
(2024年12月29日朝刊掲載)
同日は、広島市が希望した寺社に鏡餅を配給するとの告知記事もあった。別の日の歳末スナップでは、羽子板を見せ合い正月の歌を口ずさむ子どもや、闇市で正月用品を買い求める市民の様子を紹介。広島の師走の光景だったカキ打ちは、9月の枕崎台風で被害を受けながら、ほそぼそと続いていた。
原爆で親を奪われた子どもたちを受け入れた広島県五日市町(現広島市佐伯区)の広島戦災児育成所も、新年を迎える準備をしていた。餅つきをした12月29日の「育成日誌」には「新年を迎へる楽しさ 児童達は今日の餅つきに一層の喜びを思った」。30日朝は餅入りの雑炊を味わい、教職員は正月の買い出しに向かった。31日は大掃除。夕食後に福引もした。
当時、広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の2年生だった矢野美耶古さん(93)=西区=の生家は宇品町(現南区)にあった神田神社で、被爆直後に負傷者を受け入れた。10月の秋祭りを機に、爆風で壊れた屋根を修復。正月には小豆の代わりにササゲの煮汁にもち米を浸して紅白餅を作って供えた。ただ、「新年を祝える気持ちにはなれなかった」
8月6日、現在の平和記念公園(中区)南側の建物疎開作業に動員されていた市女の1、2年生計541人が全滅した。腹痛で休んだ矢野さんは自宅で被爆し助かった。そのことを伝えると泣き崩れる級友の遺族がいた。大人から「非国民」「生き残り」と心ない言葉もかけられた。
「生きるのがつらかった」。戦争一色の世の中で育ち、家族と共に皇居方向へ敬礼し一日を始めていた生活は一変した。「原爆は、犠牲になった者も生き残った者も、地獄を味わうのです」(山下美波)
(2024年12月29日朝刊掲載)