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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月28日 連合国の記者団が取材

 1945年12月28日。連合国の米国、英国、中華民国などの新聞・通信社の記者団10人が、広島市を訪れた。原爆投下後の現状の取材で、連合国軍総司令部(GHQ)が仲介。市内の被害状況を見た後、広島県府中町の東洋工業(現マツダ)にあった県の仮庁舎で、木原七郎市長や県幹部たちと懇談した。

 本紙が30日、やりとりを詳報している。広島側は物資不足で復旧が思うように進まず、援助を渇望。海外からの支援を望む物資を「機械、建設用資材、食糧」と答えた。

 一方、記者団は日本が戦争中にアジアに与えた被害を挙げ、問う。「日本人はマニラ、南京の被害惨状を知ってゐれば外の被害を放っておいて自国の復興は考へられないはずであるが」

 これに対し、広島側は「戦時中は政府が発表を禁止したので国民は外の被害を全然知らない」と説明。記者団に「新聞はそのやうな写真をのせなかったか」と詰められ、「戦時中は全然のせず最近になってやっとぽつぽつのせるやうになり外の被害を知って驚いてゐる」と応じた。広島側の参加者の様子は、「難渋の色が濃いかった」(30日付記事)という。

 戦時中、本紙を含む各紙は政府の報道統制を受け、戦意高揚のため、戦況がゆがめられた「大本営発表」を伝えた。25日の本紙社説は「戦争絶滅」を見出しに掲げ、戦時中の日本は「戦争の罪悪に対する深刻な公正な認識を見失ってしまった」と振り返った。今になって戦争の痛苦や罪悪を骨身にしみて感じつつあるとして、こう訴えた。

 「新日本はこの教訓によって勝敗に拘(こだわ)らず戦争そのものが如何(いか)に人類の文化、民衆の生活を破壊し罪悪を犯すものであるかを徹底的に認識して、今後自ら進んでかかる過誤を絶対に犯さざるやうに国内を改造せなければならぬ」(編集委員・水川恭輔)

(2024年12月28日朝刊掲載)

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