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[ヒロシマの空白 街並み再現] 移ろう風景 市民の目線で カメラマンの記録 遺族が原爆資料館に寄贈

川と生きる人々 華やぐ映画館

 プロカメラマンとして活動し、戦争中は広島市内で写真館を開いていた森本太一さん(1978年に61歳で死去)は、被爆前から戦後復興期にかけての街の変遷をつぶさに記録していた。2024年末、遺族がアルバム3冊に収まる写真約50枚を原爆資料館に寄贈。既に所蔵する分と併せ、同館のコレクションは計約210枚となった。その中から、1発の原爆によって壊滅する「あの日」までの街と人を捉えたカットの一部を紹介する。(新山京子)

 森本さんは東京のオリエンタル写真学校で撮影技術を学んだ後、古里の広島市幟町(現広島市中区)の自宅に写真館を開いた。

 被爆前の写真は約120枚で、30~40年代の撮影とみられる。爆心地に近い元安橋から南東を望む1枚は、川面の渡り船と大手町(現中区)の街並みが見える。鉄筋3階建ての広島瓦斯(がす)(現広島ガス)本社などが写る。同館の落葉裕信学芸係長は「県産業奨励館(現原爆ドーム)から南側の一帯を捉えた被爆前の写真は珍しい。川沿いに建物がひしめき合うさまがよく分かる」と話す。

 繁華街の八丁堀では二つの映画館の建物も撮り残した。入り口前を人が往来する東洋座。「太陽館」ではチケット売り場に男性が後ろ姿で立つ。

 森本さんの次男、博之さん(79)=安佐北区=によると、森本さんが趣味でカメラを持つ時は風景に好んでレンズを向けたという。干潮の京橋川で遊ぶ子どもたちをはじめ、被爆前の日常を市民目線で切り取った。

 森本さんが記録した街の日常は、45年8月6日に根こそぎ失われた。爆心地から約1キロの自宅は全焼。家族は市外に疎開しており難を逃れ、写真のプリントも疎開させていたため残ったという。森本さんは応召先の山口県内で終戦を迎え、その後に愛用のライカを手に市内に入ったようだ。

 家族に「被爆して傷ついた人にカメラを向けることはできなかった」と吐露した以外、多くを語らなかったという。写真館の再建は断念したが、78年に元中国新聞社カメラマンの故松重美人(よしと)さんらと「広島原爆被災撮影者の会」結成に参加。森本さんが撮影した写真の一部は現在、国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」の国際登録候補となっている「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」に含まれる。

 「戦争と原爆がなければ、父は戦後もカメラマンとして活躍しただろう」と博之さん。「写真から見えてくるものがあるはず。原爆被害の研究や発信に役立ててほしい」。被爆80年を前に願う。

 広島の街と市民の営みを捉えた1930年前後~45年8月5日撮影の写真を募っています。写真やアルバムは、こちらでスキャンした上でお返しします。

メールpeacemedia@chugoku―np.co.jp ☎082(236)2801

 原爆で壊滅する前の広島の写真約1300枚をグーグルマップ上に配置し、「ヒロシマの空白」ウェブサイトで公開しています。ぜひご覧ください。https://hiroshima75.web.app/map/#

(2025年1月6日朝刊掲載)

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