[ヒロシマドキュメント 1946年] 1月9日 広島市が復興局を新設
25年1月9日
1946年1月9日。広島市が新設の復興局の人事を発令した。都市計画づくりなどを担当する市政の中心部局となる。局長には、岐阜県の都市計画課長などを務めた長島敏さんが内務省の推薦を受けて就任した。
発足に携わった浜井信三さんは45年12月に助役に就いたばかりだった。当時は「何から手をつけたらよいか、思案にくれた。やらなければならないことが無限にあるのである」(以下、67年の著書「原爆市長」)。まず、「そうしなければ仕事にならない」と組織再編に取り組んだ。
米軍の原爆投下で市職員も数多く犠牲になっていた。「人が減っているし、幹部ばかり多くても能率はあがらない」と考え、木原七郎市長に既存の部の廃止を進言。各課を市長に直結させた。なおも消息不明の職員は情報を求めて新聞広告を出し、一定期間を過ぎても連絡のない場合はやむを得ず退職と整理した。
復興局に課せられた都市計画づくりは市民の暮らしに欠かせなかった。46年2月20日付の本紙記事は「住宅建設を阻んでゐるものの一つに都市計画の未決定といふ問題がある」と指摘した。区画整理や土地利用の方針は、住宅を建てる場所と密接に関わるからだ。
市は都市計画づくりに市民の意見を反映させるため「復興審議会」も設置。地元経済界の代表者や町内会長たちを委員にした。2月25日、市役所で初会合が開かれる。
浜井さんも委員を務めた。自身を奮い立たせていたのは、市役所の助役室から焼け跡に点々と見えるトタンの小屋だったという。「私は毎日その小屋を見ながら、ああ、あそこにも悲惨な生活がある、とややもすれば挫(くじ)けそうになる自分の心にムチを打った」(編集委員・水川恭輔)
(2025年1月9日朝刊掲載)
発足に携わった浜井信三さんは45年12月に助役に就いたばかりだった。当時は「何から手をつけたらよいか、思案にくれた。やらなければならないことが無限にあるのである」(以下、67年の著書「原爆市長」)。まず、「そうしなければ仕事にならない」と組織再編に取り組んだ。
米軍の原爆投下で市職員も数多く犠牲になっていた。「人が減っているし、幹部ばかり多くても能率はあがらない」と考え、木原七郎市長に既存の部の廃止を進言。各課を市長に直結させた。なおも消息不明の職員は情報を求めて新聞広告を出し、一定期間を過ぎても連絡のない場合はやむを得ず退職と整理した。
復興局に課せられた都市計画づくりは市民の暮らしに欠かせなかった。46年2月20日付の本紙記事は「住宅建設を阻んでゐるものの一つに都市計画の未決定といふ問題がある」と指摘した。区画整理や土地利用の方針は、住宅を建てる場所と密接に関わるからだ。
市は都市計画づくりに市民の意見を反映させるため「復興審議会」も設置。地元経済界の代表者や町内会長たちを委員にした。2月25日、市役所で初会合が開かれる。
浜井さんも委員を務めた。自身を奮い立たせていたのは、市役所の助役室から焼け跡に点々と見えるトタンの小屋だったという。「私は毎日その小屋を見ながら、ああ、あそこにも悲惨な生活がある、とややもすれば挫(くじ)けそうになる自分の心にムチを打った」(編集委員・水川恭輔)
(2025年1月9日朝刊掲載)