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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 本谷量治さん―「生き残った」苦悩抱える

本谷量治(もとたにりょうじ)さん(96)=広島市安佐南区

失った家族4人思い 91歳から証言

 本谷量治さん(96)は17歳(さい)で被爆し、一緒(いっしょ)に住んでいた家族4人を失った悲しみと苦しみを抱えて生きてきました。ふとしたきっかけで背中(せなか)を押され、証言活動を決意したのは91歳の時でした。

 1945年当時、父は既(すで)に病死しており、母ミキヨさんと姉文子さん、弟で14歳だった任(まこと)さん、12歳の巌(いわお)さんと薬研堀(やげんぼり)(現中区)で暮(く)らしていました。兄姉を合わせると8人きょうだい。広島駅近くの広島鉄道局の印刷工場が職場でした。

 8月6日、出勤(しゅっきん)して職場長の話を聞いていると突然(とつぜん)、窓(まど)に青白い光が差しました。爆心地から約1・8キロ。気を失い、気付くと建物の下敷(したじ)きになっていました。ガラスの破片(はへん)で右目尻(めじり)と右手をけがしながら、何とか外に出ました。

 「矢賀(現東区)で手当てしてもらえる」と聞いて向かったものの、赤チンを付けて包帯を巻かれただけ。大やけどの人も油を塗(ぬ)られる程度でした。夜は職場の仲間と二葉山の中腹(ちゅうふく)で明かし、真っ赤に燃える市中心部を見つめていました。

 7日、焼け跡(あと)を歩いて薬研堀の自宅へ。「わらじを履(は)いた足の裏(うら)が熱かった」。父が生前に造った五右衛門風呂(ごえもんぶろ)の跡だけ残っていました。自宅で被爆したミキヨさんと任さんとは、幸い郊外の親族の家で再会。第三国民学校(現翠町(みどりまち)中)の建物疎開(そかい)作業で雑魚場町(現中区)に出たままの巌さんを母と一緒に捜(さが)しました。

 川には、水を求めて飛び込んだ人たちの遺体(いたい)が浮(う)いていました。川岸に引き揚(あ)げられ廃材(はいざい)で焼かれていきます。思わず手を合わせました。今も市内で川筋(かわすじ)を歩くと胸(むね)が苦しくなります。巌さんは見つかりませんでした。

 そのうち、ミキヨさんと任さんの肌(はだ)に紫(むらさき)の斑点(はんてん)が出て、髪(かみ)の毛が抜(ぬ)けました。南天の葉を煎(せん)じて飲むぐらいしかできず、9月上旬(じょうじゅん)に亡(な)くなりました。爆心地近くの燃料会館(現在の平和記念公園レストハウス)に勤めていた文子さんは、鼻と口がただれて寝(ね)たきりになり、息絶えました。

 「(原爆は)うつる」と葬儀(そうぎ)に来ない親類もいました。本谷さんも9月に高熱で寝込みました。姉たちが「この子も間もなく死ぬのでは」と小声で話すのを聞き、一時は死を覚悟(かくご)したほどです。

 就職(しゅうしょく)先は、きょうだいの世話にならず自立しようと広島県外に支店のある会社を選びました。大阪勤務の頃(ころ)、和歌山県出身の女性と出会います。相手家族に「被爆者だから」と反対されましたが乗り越(こ)え、結婚(けっこん)しました。

 長い間、被爆したことを語らず生きてきました。4人の死を思い、「どうして自分だけ生き残ったのか」と苦しみ続けました。「家族を奪(うば)い去った米国への憎(にく)しみはずっと消えない」と胸の内を語ります。

 妻を亡くした翌年(よくとし)の2018年、古里の広島へ戻(もど)りました。市内であった原爆展に何となく足を運び、主催者(しゅさいしゃ)に「私も被爆者」と明かすと体験証言を勧(すす)められました。91歳のときに一念発起し、修学旅行生たちに語り始めました。最初は、人前で緊張(きんちょう)して声が震(ふる)えたことも。でも、どうしても若い人たちに「戦争は絶対にやめて」と伝えたい。96歳の今の思いです。(頼金育美)

私たち10代の感想

消えぬ恨み それが戦争

 本谷さんは、原爆に家族4人を奪われた上、病気や差別にも苦しみ、つらい生活を送りました。「今でも米国を恨(うら)んでいますか?」と尋(たず)ねると、「そうです」と答えました。表情には怒(いか)りがにじんでいました。戦争が終わって80年近くたっても心の奥(おく)から消えない思いがある。それが戦争なのだと気づきました。(中3矢沢輝一)

想像もつかないつらさ

 私(わたし)たちと同じ10代で本谷さんは被爆しました。母と姉、弟の4人が次々と亡くなるのをどのような気持ちで見ていたのか。想像もつかないつらさだったのではないでしょうか。今回話してもらったことは、本谷さんにとって体験のほんの一部だと思います。それでも、私から周りの人に伝えていきたいです。(高1竹岡伊代莉)

 本谷さんの母と弟は、紫斑や脱毛といった症状が出て亡くなりました。本谷さんの当時の恐怖と苦しみはとても大きかったと思います。取材を通して、無事に見えた人でも原爆放射線の影響で家族が亡くなることの残酷さを強く感じました。

 本谷さんは91歳まで被爆証言をしてこなかったそうです。同じように大きな苦しみを背負って生きてきた被爆者の中には、誰にも体験を語ったことがない人も多いのではないでしょうか。原爆で受けた被害は一人一人違います。だからこそ私たちに被爆者の体験証言は貴重で、大きな意味を持つのだと思います。(中3川鍋岳)

 家族4人を原爆によって奪われた深い喪失感が伝わりました。周りの人から「原爆はうつる」と心ない声を掛けられたり、結婚相手の家族から結婚に反対の意を示されたりと、戦後も差別や偏見に苦しんだそうです。原爆は愛する人々を奪っただけでなく、生き残った人々の未来も奪いました。現代に生きる私たちは、被爆者の経験を心に刻み、同じ過ちを繰り返さないよう努めなければなりません。そのためには、被爆者の声を聞き続け、平和の大切さを次の世代に伝え続けることが重要だと思います。(中3亀居翔成)

 二つのことが印象に残りました。一つ目は、原爆が投下された当時は、原爆の放射線を浴びて体に斑点ができるのは毒のせいだと考えられていたことです。二つ目は、本谷さんは、原爆を投下して家族を奪った米国が好きではないということです。80年近くたっても、憎しみは消えないことが強く心に残りました。私たちの世代は平和に向けた一歩を踏み出すために、海外の人たちと一緒に、過去の歴史を学びながら対話を重ねることが大切だと思います。(中1森本希承)

 本谷さんは大阪に住んでいて証言する機会もなく、「もっと大けがした人が証言しているから」と90歳になるまで証言をしなかったそうです。自分から進んで語ってこなかった人が口を開いてくれることで、私たちはさまざまな視点から被爆体験を知ることができます。とても貴重な機会です。本谷さんは「原爆はうつる」と直接言われたこともあるそうです。もし私が同じ立場だったらとても傷ついたと思います。本谷さんの芯の強さも感じました。(中3行友悠葵)

 ◆孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2025年1月13日朝刊掲載)

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