[ヒロシマドキュメント 1946年] 1月 路面電車の復旧進む
25年1月15日
1946年1月。広島電鉄の路面電車の復旧が進んだ。単線から複線になり、擦れ違えるように。オーストラリア海軍予備員だった当時21歳のノーマン・クレルさんが、広島市滞在中の45年末から46年初めごろまでの間に撮影した紙屋町交差点(現中区)の写真には、大勢の人が乗り込む様子が写る。
先立つ45年12月17日付の中国新聞は、車両の整備や従業員の確保ができたとして、市内線の運転時間が15日に延長されたと伝えた。始発は紙屋町発の宇品行きと広島駅行きが最も早く午前5時48分。終電は紙屋町発電鉄前行きが最も遅く午後8時24分となった。
市内線は、被爆3日後に己斐―西天満町間で運行を再開したとされ、その後に順次復旧。ただ、線路内に被爆した車両が残っていたり、紙屋町のポイントが使えなかったり。また、単線では擦れ違いができないため、紙屋町で折り返し運転をして運行間隔を短縮。複線化が待たれていた。
一方で、横川線は45年12月26日、十日市から横川橋手前までの区間が部分開通したが、9月の枕崎台風で横川橋が流失していた。終点の横川までつながるのは被爆3年後になる。
43年に開校して戦時下の運行を支えた広島電鉄家政女学校は終戦とともに廃校になった。16歳だった2年時に被爆した堀本春野さん(2012年に82歳で死去)は「一番電車」に車掌として乗務したが、母は行方不明で、下痢の症状もあり「精神的に、肉体的にと最悪だった」(85年刊の「電車内被爆者の証言」)。原爆孤児となり、学校も失った堀本さんは広島を離れた。(山下美波)
(2025年1月15日朝刊掲載)
先立つ45年12月17日付の中国新聞は、車両の整備や従業員の確保ができたとして、市内線の運転時間が15日に延長されたと伝えた。始発は紙屋町発の宇品行きと広島駅行きが最も早く午前5時48分。終電は紙屋町発電鉄前行きが最も遅く午後8時24分となった。
市内線は、被爆3日後に己斐―西天満町間で運行を再開したとされ、その後に順次復旧。ただ、線路内に被爆した車両が残っていたり、紙屋町のポイントが使えなかったり。また、単線では擦れ違いができないため、紙屋町で折り返し運転をして運行間隔を短縮。複線化が待たれていた。
一方で、横川線は45年12月26日、十日市から横川橋手前までの区間が部分開通したが、9月の枕崎台風で横川橋が流失していた。終点の横川までつながるのは被爆3年後になる。
43年に開校して戦時下の運行を支えた広島電鉄家政女学校は終戦とともに廃校になった。16歳だった2年時に被爆した堀本春野さん(2012年に82歳で死去)は「一番電車」に車掌として乗務したが、母は行方不明で、下痢の症状もあり「精神的に、肉体的にと最悪だった」(85年刊の「電車内被爆者の証言」)。原爆孤児となり、学校も失った堀本さんは広島を離れた。(山下美波)
(2025年1月15日朝刊掲載)