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手記集「原爆の子」 原稿どこに 編さん者の遺族や執筆者 捜索 飾らない子どもの視点 1175人分

 1951年出版の「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」に寄せられた被爆体験記の原稿を、編さんした長田新・広島大名誉教授(61年に75歳で死去)の遺族や執筆者が捜している。未掲載分を含め1175編に上るが、長く所在不明のまま。記憶の生々しいうちに子どもの視点で書き残した惨禍の記録を掘り起こしたい考えだ。(山下美波)

 体験記は、教育学者で自らも被爆した長田氏が教え子たちと協力し、市内や近郊の学校から収集。当初は平和教育の研究材料として考えていたが、読むほどに「忍びなくなった」(序文)といい、岩波書店から刊行した。

 1175編のうち、本文掲載は小学4年生から大学生までの105編。幟町国民学校(現中区の幟町小)1年時に被爆した少女は、建物の下敷きになった母を助け出せず「母の骨をだいて、私は大声をはり上げて泣いた。涙はいつまでも流れて来る」と振り返る。やけども負い、同じような人を見ると「はしりよってお互いになぐさめあい、はげましあいたい気持がする」。

 序文には84編の一部も引用。英語やロシア語など十数カ国語に翻訳されたほか、52年には「原爆の子」(新藤兼人監督)、53年には「ひろしま」(関川秀雄監督)として映画化された。

 長田氏の孫で上田女子短期大教授の真紀さん(58)=長野県上田市=によると、掲載分や掲載候補の原稿は、岩波書店から長田氏の元に戻ったとみられる。ただ、亡くなった後に子どもたちが長野県の生家などを捜しても見つからなかった。

 一方、未掲載分は教え子や当時の担当教員たちの手元、各校の資料室などに残っている可能性があるとみる。今後、関係者のリストを捜し出し、原稿の行方をたどる手掛かりにするという。

 真紀さんは、日本文学の戦後派作家の専門家だが、小学生の頃に「原爆の子」を読み、原稿の行方を気にかけてきた。「体験記を寄せてくれた子どもの存在があってこそ、まとめられた作品。厳しい世界情勢の今、1175人分の原稿を見つけて子どもの戦争被害を再認識するきっかけにしたい」と話す。

 先月下旬には、体験記の一部が序文に載った原爆資料館(広島市中区)の元館長、原田浩さん(85)を安佐南区の自宅に訪ね、交流した。6歳の時に広島駅で被爆した原田さんは「米国の占領末期に出版され、貴重な一冊。被爆から間もない時期に自分がどのような文章を書いたのか全文を確認したい」と願う。

 執筆者の親睦団体「原爆の子きょう竹会」会長の早志百合子さん(88)=安佐南区=も、かつて長田氏の生家や四男の五郎氏(2022年に95歳で死去)の東京の自宅、岩波書店を訪ねて原稿を捜したが、見つからなかった。

 「執筆者で集まるたびに原稿の行方が話題になり、発見するのが会の使命のように感じていた。本になるとは知らず、みんな飾り気なく体験をそのまま書いたので出版後に苦労した人もいるが、これこそ原爆手記の原点だと思う」と発見に望みをつなぐ。

(2025年1月20日朝刊掲載)

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