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[ヒロシマドキュメント 1946年] 1月中旬 二葉開拓団の麦 芽生える

 1946年1月中旬。広島市の広島駅北側の東練兵場跡の畑に、麦が芽生えていた。復興へ食糧難や失業問題を解決しようと、終戦後に戦災者や元軍人が「二葉開拓団」をつくり、入植していた。

 開拓団の活動を伝える1月17日付中国新聞によると、「新日本の建設はまづ帰農から」との考えで、45年11月に約20家族で発足した。戦時中から兵隊が一部を農耕していた東練兵場跡など、市内の旧軍用地120町歩(約120ヘクタール)を開拓。入植世帯は2カ月ほどで約200に増えていた。広島県、市の農業会から払い下げを受けた農具や馬数頭を使い、麦を主に、野菜も育てた。

 団長の藤田守登さん(2009年に94歳で死去)は戦時中、二葉山の頂上に築かれた高射砲陣地の高射砲隊長だった。「団長はじめ団員に復員軍人が大分をり時には白い眼でみられますが、我々は嘗(かつ)ての戦友が闇商人となり犯罪に走るのを見ると涙の出る思ひです」と当時の取材に関係者と共に答えている。

 「広島原爆戦災誌」(71年刊)によると、開拓団は本格的な食糧増産に取り組み、市に米、麦を供出するまでに成長した。一方で、国有地だった旧軍用地は市を通じて農耕希望者に一時的に貸与される形となり、市は将来、東練兵場跡を公園として利用する計画があった。

 ただ、連合国軍総司令部(GHQ)が旧軍用地を農業従事者に払い下げるよう求め、51年に県農地委員会が東練兵場跡の売り渡しを決定。市はこれを不服として、県を提訴し、紛争が続いた。開拓地の一部を学校や公園などに転用することで、60年に和解が成立した。(山下美波)

(2025年1月18日朝刊掲載)

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