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[ヒロシマドキュメント 1946年] 1月 絶えた日記 故郷で再開

 1946年1月。広島の陸軍船舶司令部から故郷の京都に復員した当時21歳の石角博さん(2009年に85歳で死去)が、被爆直後に途絶えていた日記を約5カ月ぶりに書き始めた。

 元日は「神社参拝。寺詣リヲ終リ九一君宅ニテ遊ブ。夜秀夫君宅ニテカルタ会ヲ催シ愉快ニ遊ブ」と記す。同じページには「新生日本ノ再建ニ邁進(まいしん)セン」と書き添えている。毎日欠かさずつけ、2月10日には青年団の発足式に出席し「本団前途ヤ実ニ有望ダ」と意気込む。

 石角さんは京都府志賀郷村(現綾部市)出身。代用教員をしていたが、見習士官となった後、広島へ向かった。訓練の日々も45年2月24日から「修養日誌」として記録。見つからないようにトイレで書き留めていたという。

 8月6日は、広島市の草津海岸で爆雷の投下演習中に被爆。「八時頃デアッタ 突如異様ナ光ト共ニ大音響ヲ発シタト思ツタ瞬間 廣島市ハ火焔(かえん)ニ包マレテイタ。敵ノ新戦法新兵器ニ依ル攻撃ダ」

 その日から草津国民学校(現西区の草津小)での救護に加わり、日誌は7日で途絶えた。後の手記によると、軍医の指示で死期が迫る負傷者に水を与え、遺体の収容や火葬も担ったという。

 長男の敏明さん(74)=京都府長岡京市=によると、公務員の傍ら農業を営んでいた父は畑作業に出る際に必ず水筒を持っていた。水を口にすることはなく、兵隊にいた時に使っていた物だと聞かされた。「心のどこかで供養の意味を込めていたのではないか」と想像する。

 亡くなるまで原爆の話をすることはほとんどなかった。晩年に病床でも日記を書くことにこだわった父にとって、45年の空白の期間は「それだけ思い出したくない体験だったのだろう」。

 再開後の日記の内容は、「午後ハ苗代ヲ作リ上ゲソレヨリ薪作リヲナス」(4月9日)「食糧不足毎日悩ミノ種ダ」(6月5日)などと生活の様子が中心だった。それでも46年8月6日にはこう記した。「広島ニ於ケル原子爆弾投下一周年ダ。昨年ノ今日ノ事ヲ思ヘバ身ノ毛ガ立ツ」(山本真帆)

(2025年1月22日朝刊掲載)

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