[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 被爆翌年 カラー写真現存 供養塔や神社 営み写す
25年1月23日
爆心地近くのバラックと供養塔、廃校となった学校跡…。1946年8月から12月までの間にロバート・モージャー氏が残した広島市内のカラー写真の撮影場所を読み解くことで、当時の光景が一層浮かび上がる。日本でカラー写真が普及する前の時期。被爆翌年の街の「色」の証しでもある。(編集委員・水川恭輔、山本真帆)
広島県産業奨励館(現中区の原爆ドーム)そばの元安川東岸から、対岸の中島本町(現中区の平和記念公園)を撮った1枚。拡大すると、バラックの向こうに46年5月建立の「広島市戦災死没者供養塔」(高さ約6メートル)の上部がはっきりと見える。そばに礼拝堂も建てられ、8月6日に犠牲者の追悼会が営まれた。
バラックの前には洗濯物が干され、町内に被爆前から店があった「キク薬局」の看板も立つ。一方で、市が中島本町を含む一帯の公園化の検討を進めていた。46年9月10日付本紙は、「当局において企画中の中島方面公園地帯設定」を巡り、中島本町や周辺の町民の中に商業機能を阻害するなどとして反対の意見があると伝えている。
爆心地から約500メートル南で社殿が倒壊、焼失した白神社(現中区)の写真には、真新しい小さな建物が写る。「ササ竹を4本立て、しめ縄を張っているように見える。仮の神殿ではないか」と宗像利道宮司(56)。社殿が本格的に再建されるのは被爆10年の55年になる。
赤茶色のがれきが残るのは、被爆で廃校を余儀なくされた大手町国民学校跡(現中区)と分かった。「広島原爆戦災誌」によると、爆心地から約1・1キロにあった木造校舎は全壊全焼し、児童35人が被爆死。181人が行方不明か連絡不能になった。復興の兆しが見える街にあって、断ち切られた学びやの歴史を示している。
(2025年1月23日朝刊掲載)
広島県産業奨励館(現中区の原爆ドーム)そばの元安川東岸から、対岸の中島本町(現中区の平和記念公園)を撮った1枚。拡大すると、バラックの向こうに46年5月建立の「広島市戦災死没者供養塔」(高さ約6メートル)の上部がはっきりと見える。そばに礼拝堂も建てられ、8月6日に犠牲者の追悼会が営まれた。
バラックの前には洗濯物が干され、町内に被爆前から店があった「キク薬局」の看板も立つ。一方で、市が中島本町を含む一帯の公園化の検討を進めていた。46年9月10日付本紙は、「当局において企画中の中島方面公園地帯設定」を巡り、中島本町や周辺の町民の中に商業機能を阻害するなどとして反対の意見があると伝えている。
爆心地から約500メートル南で社殿が倒壊、焼失した白神社(現中区)の写真には、真新しい小さな建物が写る。「ササ竹を4本立て、しめ縄を張っているように見える。仮の神殿ではないか」と宗像利道宮司(56)。社殿が本格的に再建されるのは被爆10年の55年になる。
赤茶色のがれきが残るのは、被爆で廃校を余儀なくされた大手町国民学校跡(現中区)と分かった。「広島原爆戦災誌」によると、爆心地から約1・1キロにあった木造校舎は全壊全焼し、児童35人が被爆死。181人が行方不明か連絡不能になった。復興の兆しが見える街にあって、断ち切られた学びやの歴史を示している。
(2025年1月23日朝刊掲載)