[ヒロシマドキュメント 1946年] 1月27日 娘の死知らず手紙書く
25年1月27日
1946年1月27日。海軍軍人だった当時40歳の大久保謙吉さん(79年に74歳で死去)は妻子に手紙を書いた。戦後も海外を転々とし、広島市の中島国民学校(現中区の中島小)5年生だった一人娘の睦子さん=当時(11)=が原爆の犠牲になったのを知らずにいた。
この時もマレーシアの港町バトゥ・パハから乗艦していたといい、「睦ちゃんは学校はどうですか。相変らず元気で通学してゐることと思います」。広島の状況は電報や新聞で知っていたが、妻のさかえさん(2013年に98歳で死去)とは連絡が取れないでいたとみられる。
45年8月6日、睦子さんは「行ってまいります」と、吉島羽衣町(現中区)の自宅を出たきり戻らなかった。6月の佐世保空襲から逃れ、親類を頼って広島に移ったばかりで、学童疎開には加わっていなかった。さかえさんは「掌中の珠ともいつくしみ育てました私どものただ一人の子」(71年刊の追悼記集「流灯」)を捜したが、当時は遺骨も見つからなかった。
謙吉さんが娘の死を知ったのはシンガポールにいた46年5月。「いくさの庭に立つ父と 命かえなんと思ふ許せわが子よ ありし日の愛らしきしぐさなど 思ひいで上甲板にわれひとりなりけり みまかりしわが子のみたま安かれと 南のはてにただ祈るなり」(5月19日の手紙)。「よく悲しみに堪え」と妻もいたわった。8月に復員し、広島で暮らした。
夫妻は戦後5、6年後に養女を迎えた。その原共子さん(81)=大阪市=は医師だった父を原爆に奪われ、被爆5年後に母も亡くしていた。謙吉さんはいつも共子さんが学校から帰るのをじっと待ち、宮島やチチヤスの工場にも連れて行ってくれたという。「睦ちゃんにできなかったことを精いっぱい、愛情を持ってやってくれました」
睦子さんの遺骨は、平和記念公園(中区)の原爆供養塔に安置されていたのが分かり、75年にさかえさんに引き渡された。 (山本真帆)
(2025年1月27日朝刊掲載)
この時もマレーシアの港町バトゥ・パハから乗艦していたといい、「睦ちゃんは学校はどうですか。相変らず元気で通学してゐることと思います」。広島の状況は電報や新聞で知っていたが、妻のさかえさん(2013年に98歳で死去)とは連絡が取れないでいたとみられる。
45年8月6日、睦子さんは「行ってまいります」と、吉島羽衣町(現中区)の自宅を出たきり戻らなかった。6月の佐世保空襲から逃れ、親類を頼って広島に移ったばかりで、学童疎開には加わっていなかった。さかえさんは「掌中の珠ともいつくしみ育てました私どものただ一人の子」(71年刊の追悼記集「流灯」)を捜したが、当時は遺骨も見つからなかった。
謙吉さんが娘の死を知ったのはシンガポールにいた46年5月。「いくさの庭に立つ父と 命かえなんと思ふ許せわが子よ ありし日の愛らしきしぐさなど 思ひいで上甲板にわれひとりなりけり みまかりしわが子のみたま安かれと 南のはてにただ祈るなり」(5月19日の手紙)。「よく悲しみに堪え」と妻もいたわった。8月に復員し、広島で暮らした。
夫妻は戦後5、6年後に養女を迎えた。その原共子さん(81)=大阪市=は医師だった父を原爆に奪われ、被爆5年後に母も亡くしていた。謙吉さんはいつも共子さんが学校から帰るのをじっと待ち、宮島やチチヤスの工場にも連れて行ってくれたという。「睦ちゃんにできなかったことを精いっぱい、愛情を持ってやってくれました」
睦子さんの遺骨は、平和記念公園(中区)の原爆供養塔に安置されていたのが分かり、75年にさかえさんに引き渡された。 (山本真帆)
(2025年1月27日朝刊掲載)