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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1947年夏 ドーム近くの母子 夫失い必死に6人養う

 1947年夏。広島市中心部で大破した広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の近くに、焼け跡から再出発する市民の姿があった。30代だった伊勢千枝子さんもその一人。原爆に夫を奪われ、4男2女を養わねばならなかった。

 「気が強かったねえ。原爆の後は子どもを集めて『お母さんは、今日から男になるよ』と。あの時代、そうでも思わんと食うていかれんと考えたんじゃろう」。当時10歳だった四男の栄一さん(87)=中区=は思い返す。写真家の菊池俊吉さんが被爆2年後の市内を撮った1枚には、45年12月生まれでまだ1歳だった次女をいとおしそうに抱く千枝子さんが写る。

長兄も犠牲に

 被爆前、父新一郎さんは猿楽町(現中区)で化粧品の製造販売「伊勢屋商店」を営んでいた。相撲の興行があると、若い力士がまげを結うための鬢(びん)付け油を買いに訪れたという。産業奨励館は目と鼻の先で、遊び場だった。「げたで走り回ると怒られてね」

 各地で空襲が激化する中、伊勢さん母子は亀山村(現安佐北区)に疎開。45年8月4日に親類の法事で猿楽町に戻り、翌5日に再び村に向かった。駅まで見送った父は、母に「子どもらを頼むで」と声をかけた。それが最後に聞いた言葉だった。

 6日朝、当時47歳の父は市役所近くの建物疎開作業に出た。10日ごろ、母は栄一さんたちを連れて市内に入ったが、結局遺骨さえ見つからなかった。疎開していなかった広島高(現広島大)1年の長兄博吉さん=当時(17)=も犠牲になった。

 家は跡形もなくなり、暮らしは一変。祖父が持っていた骨董(こっとう)品を売るなどして生活費を工面した。被爆から1年ほどたった後、旧宅の少し東の焼け跡に、家を建てて戻った。

雑貨店で生計

 近くの市民と支え合った。「勉強机もない粗末な木造の家だったけど、この辺りにあまりなかった風呂はあって」。爆心地となった近くの島病院の職員がよく風呂を借りに来た。お礼にと、患者からもらったという菓子折りを携えていた。

 母は生計を立てるために雑貨店を始め、せっけんや掃除道具を必死に売った。被爆の直後は父と兄の死に泣きじゃくっていた栄一さんもやがて牛乳配達で家計を助けた。戦後4、5年ごろ、たばこ店に転換。栄一さんは20代から店の仕事に携わり、今も営業を続ける。2005年、母を92歳で見送った。

 その6年前に撮られた証言映像が、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に残る。「お金もないし、食べるものもないし、家もない。あの時の苦しみは今も忘れられません」

 千枝子さんは被爆後をそう振り返りながらも、子どもと生き抜いた誇りが口調ににじむ。「石にかじりついてでも育てようと」「貧乏のための涙は、いくらでも流す。貧乏の涙は花が咲くのです」(編集委員・水川恭輔)

(2025年1月27日朝刊掲載)

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