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戦後80年 芸南賀茂 坂の上の防空壕 <下> 壕飛び出し母と別れる

 呉市三和町の坂の上の防空壕(ごう)に一緒に逃げ込みながら、離れ離れとなった親子がいる。当時13歳だった船井百合子さん。息苦しさに耐えられず、つないでいた母の手をほどき、壕を出た。それから母の姿を見ていない。今月中旬、壕跡前の「此彼堂」(読み方は不詳)であった慰霊祭に参列した船井さんの次女(56)が百合子さんの体験を教えてくれた。

煙と熱風が中に

 4人きょうだいの末っ子だった百合子さん。空襲が始まった1945年7月1日夜、当時54歳の母サトさんに手をつながれ、18歳の次姉とともに防空壕に逃げ込んだ。広い防空壕の真ん中より少し奥で、サトさんは娘2人の手を強く握っていたという。やがて、壕の前の家が焼け、周りは火に包まれた。壕の中に煙と熱風が入ってきた。

 「お母ちゃん、息が苦しい。外に出よう」。百合子さんは母に訴えた。母と姉は「焼夷(しょうい)弾が落ちて怖いからここにいる」と、首を縦に振らなかった。息苦しさに耐えられなくなった百合子さんは、サトさんの手を離して、1人で壕を飛び出した。

 米側の資料によると、この日、152機が千トン余の焼夷(しょうい)弾を落とし、旧市街地の大半を焼き尽くした。呉市の事務報告書は住宅の全焼全壊が2万2164戸に上ったとしている。

 まちに火が燃え広がる中、百合子さんは山へと走った。翌2日朝、山を下り防空壕に戻ると、多くの人が亡くなっていた。近くの亀山神社には遺体が並んでいた。18歳の姉は助かったが、サトさんは見つからなかった。

寂しさは消えず

 元気なうちは此彼堂の慰霊祭に参っていたという百合子さん。「お母ちゃんに会いたい。お母ちゃんはどこにいったんじゃろか」。母と離れ離れになった寂しさは2021年に89歳で亡くなるまで消えなかった。サトさんの骨つぼには焼け落ちた当時の自宅の灰を入れている。

 防空壕跡の前に、土地の所有者が私費で建てた此彼堂は、土地の売却のため今年2月でなくなる。祖母サトさんの供養を引き継ぐ次女は思う。「お堂はなくなっても、この場所であった出来事は永遠に伝え継がなければならない」と。 (衣川圭)

(2025年1月27日朝刊掲載)

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