[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1947年8月6日 第1回平和祭 世界向け発信
25年1月26日
1947年8月6日午前8時。被爆から2年を迎えた広島市で、初の平和祭のメイン行事となる式典が営まれた。爆心地近くで、壊滅した中島本町(現中区の平和記念公園)の一角の平和広場を会場に約2500人の市民が参列。平和への願いを世界へ強く発信した。
市、広島商工会議所、広島観光協会を発起人に、6月に結成された広島平和祭協会が主催。広場の名称は市民から募って名付け、平和塔と音楽堂も建てた。式典の次第には「平和宣言」「平和の鐘」「放鳩(ほうきゅう)」「平和の歌合唱」などが並び、今に続く平和記念式典の原型となった。占領軍関係者が出席し、海外メディアの姿もあった。
前年の8月にも市内で平和復興祭が開かれていたが、平和祭協会は「世界的行事」を目指して、より意義を高めようとした。「吾々(われわれ)広島人は心の底から『永遠の平和を確立しよう』と強く強く叫んでいます」と47年6月20日付の協会の創立趣意書(市公文書館所蔵)で訴える。前月の5月3日、9条に戦争放棄を記す日本の新憲法も施行されていた。
「昭和20年8月6日は広島市民にとりまことに忘れることのできない日であった」。初めての「平和宣言」を浜井信三市長が読み上げた。4月に初の公選市長に就き、協会会長も担う42歳。当日は「あの日」と同じような真夏の太陽が輝いていたと著書「原爆市長」(67年)に記す。(編集委員・水川恭輔)
(2025年1月26日朝刊掲載)
市、広島商工会議所、広島観光協会を発起人に、6月に結成された広島平和祭協会が主催。広場の名称は市民から募って名付け、平和塔と音楽堂も建てた。式典の次第には「平和宣言」「平和の鐘」「放鳩(ほうきゅう)」「平和の歌合唱」などが並び、今に続く平和記念式典の原型となった。占領軍関係者が出席し、海外メディアの姿もあった。
前年の8月にも市内で平和復興祭が開かれていたが、平和祭協会は「世界的行事」を目指して、より意義を高めようとした。「吾々(われわれ)広島人は心の底から『永遠の平和を確立しよう』と強く強く叫んでいます」と47年6月20日付の協会の創立趣意書(市公文書館所蔵)で訴える。前月の5月3日、9条に戦争放棄を記す日本の新憲法も施行されていた。
「昭和20年8月6日は広島市民にとりまことに忘れることのできない日であった」。初めての「平和宣言」を浜井信三市長が読み上げた。4月に初の公選市長に就き、協会会長も担う42歳。当日は「あの日」と同じような真夏の太陽が輝いていたと著書「原爆市長」(67年)に記す。(編集委員・水川恭輔)
(2025年1月26日朝刊掲載)