[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1945.8.6~2025 1947年8月 第1回平和祭
25年1月26日
「広島の一角に発する声は小さくとも、全世界の人びとにとどけと念じながら読みあげた」
被爆地の願い 原点の宣言
1947年8月の第1回平和祭は、広島市民から湧き上がった平和への思いを形にした。「人類史上再びこうした悲劇を繰り返してはならないことをすべての国がすべての人が切望してゐます」(広島平和祭協会創立趣意書)。原爆を投下した米軍主導の占領下、市長による初の平和宣言では、広島の被害を踏まえ、核戦争による人類破滅の危機を訴えた。平和記念式典として続く被爆地の象徴的行事の原点を見る。(編集委員・水川恭輔、下高充生)
「核戦争は破滅 思想革命を」浜井市長
広島市中島本町(現中区の平和記念公園)の平和広場で、8月6日に営まれた第1回平和祭の式典。浜井信三市長は平和宣言を読み上げ、2年前の惨状を振り返った。「世界最初の原子爆弾によって、わが広島市は一瞬にして潰滅(かいめつ)に帰し、十数万の同胞はその尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した」
自身も少し行動が違えば、命を落としかねなかった。長男順三さん(88)=佐伯区=は「生き残った人間として、犠牲者の死を無駄にしてはいけない。おやじは、その意識が強かった」と話す。
浜井さんは市の配給課長だった1945年8月5日夜、空襲警報を受けて国泰寺町(現中区)の市役所に登庁。6日未明に警戒態勢が解かれ、仁保町(現南区)の自宅より市役所に近い西大工町(現中区)の妻の実家で寝ようとも考えたが、思い直し帰宅した。起床後、原爆がさく裂。爆心地から3キロ以上あり助かったが、西大工町の義父母は犠牲になった。
当時9歳の順三さんは疎開先で被爆を免れ、終戦後に市内に戻った。市職員も数多く被爆死する中、被災者の食糧確保に奔走した父のつぶやきが耳に残る。「こういうことは二度と地球上で繰り返されてはならん」
浜井さんは助役を経て47年4月に初の公選市長に就任。「平和宣言は全部自分で手を入れられている」と、元市職員の竹内多一さんが「浜井信三追想録」で証言している。
式典当日、浜井さんは宣言を読み進めるうちに身が引き締まるのを感じたという。「いまここ広島の一角に発する声は小さくとも、どうか、全世界の人びとの耳にとどけと念じながら、この平和宣言を読みあげた」(67年の著書「原爆市長」)
「原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめた」と宣言で強調。「思想革命」と呼んで、平和の創造を訴えた。
式典はNHKによりラジオで生中継され、戦後初の国際放送として米国にも届いた。8月6日付米紙ニューヨーク・タイムズは「広島を永遠に戦争の無益さの象徴とする」と浜井市長の話を引いて平和祭を紹介した。
世界に約1万2千発の核兵器があり、戦火も絶えない今、順三さんは47年の平和宣言をかみしめる。父は市長を通算4期16年務めたが「最初の宣言に被爆後の市民の心からの叫びが凝縮されている」と感じるからだ。
被爆80年に向け、昨年12月に広島の平和団体関係者たちが市内で開いた集会で講演し、父の思い出を交えて平和宣言を紹介した。「広島の訴えの原点を知り、核も戦争もない人類共生の世界へ、今こそ『思想革命』を広げてほしい」。切なる願いを次代に託す。
原爆批判 許されない時代
平和の礎 言い聞かせ
広島市の浜井信三市長の1947年の平和宣言はおびただしい死者と街の壊滅に触れた後、「しかしながらこれが戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く原因となったことは不幸中の幸いであった」と続く。
この一節は、46年に当時の木原七郎市長が発表した被爆1年の所感(8月6日付本紙掲載)の「本市が蒙(こうむ)りたるこの犠牲こそ、世界に普(あまね)く平和をもたらした一大動機を作りたる」と通底する。犠牲者は「世界人類恒久福祉のために、平和の人柱と化した」とし、涙と感謝の念で8月6日を迎えるとつづっていた。
米国の原爆投下への批判は許されようがない占領下。いずれも、あまたの無残な死は平和への礎になったと言い聞かせ、せめてもの慰めにしようとの思いがうかがえる。
市民には尽きせぬ悲しみや怒りの感情があった。浜井さんの妻文子さん(2019年に105歳で死去)も原爆で両親を失った後、「アメリカ人がまるで鬼のような人間に思われ、私の心はにくしみで一杯でした」と手記で明かす。
47年の宣言は直接的な感情表現はないが、市民の「無限の苦悩」に触れ、「苦悩の極地として戦争を根本的に否定し、最も熱烈に平和を希求する」と訴えた。
音楽・原子症検査・映画… 市民主導 45の催し
「平和の歌」を発表する音楽会、原子症血液検査、映画会…。広島市公文書館に残る第1回平和祭の行事一覧には8月5~7日を中心に、メインの式典を含めて45件が並ぶ。担当も市民の文化団体や病院など多様だ。
浜井信三さんが最初に開催アイデアを聴いたのはNHK広島中央放送局の石島治志局長からだった。友人たち10人足らずの「夢を語る会」で、被爆した市民の平和への意思を世界にアピールする機会として提案された。浜井さんは、心に刻まれた「もう何としても、戦争はまっぴらだ」(以下著書「原爆市長」)との「魂」が市民を駆り立てたと振り返る。
経済人にも賛同が広がり、広島商工会議所の中村藤太郎会頭も浜井さんに開催機運の高まりを伝えた。2人で呉市に本部を置く占領軍の中国地方軍政部を訪ねると、英連邦軍派遣の司令官は「膝を乗り出して賛成した」という。商議所は各種団体の代表200人以上の会合を開き、準備を進めた。
広島平和祭協会は、式典で世界への発信を重視した。前年に建立された「市戦災死没者供養塔」と礼拝堂では慰霊祭が営まれた。一方で仮装行列なども催され、遺族たちから「お祭り騒ぎ」との否定的な反応も出た。関連行事に携わった団体に平和祭の趣旨が伝わり切っていなかった面があり「反省会を開いて反省し合った」と浜井さん。翌1948年は関連行事を見直した。
破壊性 人類の絶滅警告
マッカーサー氏もメッセージ
米でも報道 一方で軍拡加速
第1回平和祭の式典に連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官がメッセージを寄せ、読み上げられた。原爆を投下した米国の軍人最高位の元帥で、日本占領における最高権力者。「広島の上に今までにない強力な武器が投下された」とし、こう続けた。
「あの運命の日のもろもろの苦悩はすべての民族のすべての人々に対する警告として役立つ。戦争の破壊性を助長するための自然力の利用はますます進み、ついには人類を絶滅させ、現代の構造物を破壊するような手段が手軽に得られるまで発達するだろう。これが広島の教訓である」
メッセージは広島平和祭協会の関係者が米通信社の知人を通じて依頼。マッカーサー氏が地方行事で応じるのは珍しかったという。占領期の広島に詳しい元市公文書館館長の中川利国さんは「米国、世界へ全人類史的な視点で向けられた」と読み解く。破壊的な戦争による人類の絶滅を警告する内容を浜井信三市長は「うなずけるもの」(1967年の著書「原爆市長」)と受け止めた。
米紙ニューヨーク・タイムズもマッカーサー氏のメッセージ全文を8月6日付に掲載した。論評記事では「広島と長崎がこのような追悼行事の開かれる唯一の場所となるよう望み、祈らなければならない」と強調。ただ、ソ連の核開発への警戒を背景に「防衛の主たるものは、わが国の原子力の優位性の維持と強化である」とも唱えた。
この頃、米国は核拡散への懸念から「原子力の国際管理」を主張。メッセージは米国が原爆投下国で当時唯一の核保有国である点や米国、連合国の責任に触れていない。2年後、ソ連が初の核実験を成功させると核軍拡競争が加速。50年に始まる朝鮮戦争では、トルーマン米大統領が核使用の可能性に言及する。
<第1回の平和宣言>
本日、歴史的な原子爆弾投下2周年の記念日を迎え、われら広島市民は、いまこの広場に於て厳粛に平和祭の式典をあげ、われら市民の熱烈なる平和愛好の信念をひれきし、もって平和確立への決意を新たにしようと思う。
昭和20年8月6日は広島市民にとりまことに忘れることのできない日であった。この朝投下された世界最初の原子爆弾によって、わが広島市は一瞬にして潰滅(かいめつ)に帰し、十数万の同胞はその尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した。
しかしながらこれが戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く原因となったことは不幸中の幸いであった。この意味に於て8月6日は世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして世界人類に記憶されなければならない。われらがこの日を記念して無限の苦悩を抱きつつ厳粛な平和祭を執行しようとするのはこのためである。けだし戦争の惨苦と罪悪とを最も深く体験し自覚する者のみが苦悩の極致として戦争を根本的に否定し、最も熱烈に平和を希求するものであるから。
又この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた。すなわちこれによって原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめたからである。これこそ絶対平和の創造であり、新しい人生と世界の誕生を物語るものでなくてはならない。われわれは、何か大事にあった場合深い反省と熟慮を加えることによって、ここから新しい真理と道を発見し、新しい生活を営むことを知っている。しかりとすれば今われわれが為(な)すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁進(まいしん)し、もって新しい文明へのさきがけとなることでなければならない。
この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。
永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。
ここに平和の塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する。
<式典次第>
開会の辞
平和塔除幕
平和宣言
平和の鐘(平和の祈り)(打ち上げ花火)
進駐軍メッセージ
県知事メッセージ
放鳩
平和記念植樹
平和記念樹苗伝達(戦災各都市へ)
平和の歌合唱
閉会の辞(花火信号)
(2025年1月26日朝刊掲載)