戦後80年 芸南賀茂 坂の上の防空壕 <上> 呉空襲慰霊 ひっそり幕
25年1月26日
呉市街地に甚大な被害をもたらした1945年7月の呉空襲。同市三和町の坂の上にあった防空壕(ごう)に逃げ込み亡くなった犠牲者の慰霊祭が今月中旬、防空壕跡前のお堂でひっそりと営まれた。土地売却のため2月に、お堂は解体される。80年前にここで何が起こったのか。お堂にはどんな願いが込められたのだろう。(衣川圭)
三和町の防空壕は、戦況が悪くなる中、市内各地の崖に横穴を掘った大型のものの一つとみられる。45年7月1日深夜から2日未明にかけて米軍の焼夷(しょうい)弾が市街地に降り注ぎ、多くの人が逃げ込んだ。だが、大量の煙が穴の中に流れ込んで酸素が薄くなり、多くの人々が息絶えたと語り継がれている。
私財投じ堂建立
壕一帯の土地を所有していた城憲太郎さん(97年に83歳で死去)は戦後、旧満州(中国東北部)から戻ってからこの惨事を聞き、心を痛めたという。87年に私財を投じて「此彼堂」(読み方は不詳)を完成させた。犠牲者の遺族とともにいくつもの仏像を納め、お堂に通じる坂道は「念仏坂」と名付けた。ほぼ毎年7月に慰霊祭を開き、犠牲者を弔ってきた。
今月18日にあった最後の慰霊祭には、城さんのめい岡田順子さん(76)=庄原市=とその親族、呉戦災を記録する会のメンバーたち計11人が参列し、手を合わせた。親きょうだいとお堂を守ってきた岡田さんは「残念だけど土地を手放すことになった。引き継げないのはすごく悲しい。助かろうと思って逃げ込んだ防空壕で多くの命が奪われるようなことのない世界にしたい」と願った。
一晩で2000人犠牲
東洋一と言われた軍港や、戦艦大和などを建造した呉海軍工廠(こうしょう)があった呉市は45年、米軍機の度重なる空襲を受けた。7月1、2日の市街地空襲では、約2千人が亡くなったとされる。
城さんは防空壕が掘られた崖の上にも別のお堂「彼岸堂」を建てた。中にある仏像がまなざしを向ける和庄地区の防空壕では、約550人が亡くなったという記録が残る。同地区の寺西公園には「呉市戦災遭難者供養塔・地蔵菩薩(ぼさつ)」、和庄公園には「戦災供養地蔵尊・供養塔」が建てられている。
(2025年1月26日朝刊掲載)
三和町の防空壕は、戦況が悪くなる中、市内各地の崖に横穴を掘った大型のものの一つとみられる。45年7月1日深夜から2日未明にかけて米軍の焼夷(しょうい)弾が市街地に降り注ぎ、多くの人が逃げ込んだ。だが、大量の煙が穴の中に流れ込んで酸素が薄くなり、多くの人々が息絶えたと語り継がれている。
私財投じ堂建立
壕一帯の土地を所有していた城憲太郎さん(97年に83歳で死去)は戦後、旧満州(中国東北部)から戻ってからこの惨事を聞き、心を痛めたという。87年に私財を投じて「此彼堂」(読み方は不詳)を完成させた。犠牲者の遺族とともにいくつもの仏像を納め、お堂に通じる坂道は「念仏坂」と名付けた。ほぼ毎年7月に慰霊祭を開き、犠牲者を弔ってきた。
今月18日にあった最後の慰霊祭には、城さんのめい岡田順子さん(76)=庄原市=とその親族、呉戦災を記録する会のメンバーたち計11人が参列し、手を合わせた。親きょうだいとお堂を守ってきた岡田さんは「残念だけど土地を手放すことになった。引き継げないのはすごく悲しい。助かろうと思って逃げ込んだ防空壕で多くの命が奪われるようなことのない世界にしたい」と願った。
一晩で2000人犠牲
東洋一と言われた軍港や、戦艦大和などを建造した呉海軍工廠(こうしょう)があった呉市は45年、米軍機の度重なる空襲を受けた。7月1、2日の市街地空襲では、約2千人が亡くなったとされる。
城さんは防空壕が掘られた崖の上にも別のお堂「彼岸堂」を建てた。中にある仏像がまなざしを向ける和庄地区の防空壕では、約550人が亡くなったという記録が残る。同地区の寺西公園には「呉市戦災遭難者供養塔・地蔵菩薩(ぼさつ)」、和庄公園には「戦災供養地蔵尊・供養塔」が建てられている。
(2025年1月26日朝刊掲載)