[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1947年9月ごろ 米写真誌に「原爆一号」 傷さらし 平和を訴える
25年1月30日
1947年9月ごろ。吉川清さんは、妻生美さんと広島赤十字病院(現広島市中区)で入院生活を続けていた。33歳で被爆して背中や両腕に大やけどを負い、痕が盛り上がるケロイドに苦しんでいた。その姿が世界的な米写真誌「ライフ」の9月1日号などに載った。
著書「『原爆一号』といわれて」(81年刊)によると、45年8月6日、吉川さんは広島電鉄の警備隊の仕事の夜勤明けだった。爆心地から約1・5キロの白島西中町(現中区)の自宅玄関に足を踏み入れた時、「真赤な太陽が破裂したのではないかとさえ感じられるような強烈な光が頭上におおいかぶさった」(以下著書)。大音響とともに猛烈な熱風に襲われた。
倒れた家からはい出し、妻を助けて迫る火の手から逃げた。「肩から両腕にかけて灰色の皮膚が、まるでボロ切のように垂れ下がっていた」。郊外の寺で2カ月以上看護を受けた後、広島県北の親類宅に身を寄せた。「いちどふさがった両腕の傷口が破れて、黄色い膿(うみ)と血がじくじくと流れ出す」。県に紹介され、46年3月に赤十字病院に入院した。
治癒が進まず1年ほど過ぎた47年4月、重藤文夫副院長から思わぬ頼みを受けた。米軍関係者と米国の新聞や雑誌の記者たち約20人が視察に訪れており、吉川さんの写真を撮ったり話を聞いたりしたいと言っている―。
「身体かえせ」
「地上に地獄を作り出した当事者たちが、私を見世物にでもしようというのか」。当初は固辞したが、次第に迷う。怒りはあるが、「原爆がどれほど残酷なものであったか、それを加害国民である彼らに直接うったえる、これは絶好の機会ではないか」と思い至った。
病院内の撮影場所で病衣を脱ぎ、上半身のケロイドをさらした。フラッシュを浴びると、屈辱感や憤り、悲しみが込み上げ、「この身体をもとにかえせ、まどうてくれ」と心の中で叫んだ。
取材にも対応。自身の体が「人類の平和のためのいしずえ」になるならば、米国で科学者の実験を受けたいと伝えた。ライフの9月1日号は「自分の傷が平和に役立つことを願う生存者」の見出しを掲げ、写真と渡米の意思を紹介した。
取材時、記者側から誰ともなく英語で「原爆患者一号」と言ったという。それをきっかけに国内で「原爆一号」と呼ばれるようになり、国内外からの取材依頼も続いた。
国の援護なく
一方でケロイドは激しく痛み、皮膚移植を繰り返した。手術に耐える体力をつけるため、「わずかばかりの土地」や山林を売り、食費に充てたという。国の被爆者援護はなかった。
著書によれば、家や仕事のあてがないまま、病院側からの求めで51年4月に退院。人から提案され、県産業奨励館(現原爆ドーム)のそばで小さな土産物店を始めた。入院中から考えていた原爆被害者の組織づくりにも動き出す。(編集委員・水川恭輔)
(2025年1月30日朝刊掲載)
著書「『原爆一号』といわれて」(81年刊)によると、45年8月6日、吉川さんは広島電鉄の警備隊の仕事の夜勤明けだった。爆心地から約1・5キロの白島西中町(現中区)の自宅玄関に足を踏み入れた時、「真赤な太陽が破裂したのではないかとさえ感じられるような強烈な光が頭上におおいかぶさった」(以下著書)。大音響とともに猛烈な熱風に襲われた。
倒れた家からはい出し、妻を助けて迫る火の手から逃げた。「肩から両腕にかけて灰色の皮膚が、まるでボロ切のように垂れ下がっていた」。郊外の寺で2カ月以上看護を受けた後、広島県北の親類宅に身を寄せた。「いちどふさがった両腕の傷口が破れて、黄色い膿(うみ)と血がじくじくと流れ出す」。県に紹介され、46年3月に赤十字病院に入院した。
治癒が進まず1年ほど過ぎた47年4月、重藤文夫副院長から思わぬ頼みを受けた。米軍関係者と米国の新聞や雑誌の記者たち約20人が視察に訪れており、吉川さんの写真を撮ったり話を聞いたりしたいと言っている―。
「身体かえせ」
「地上に地獄を作り出した当事者たちが、私を見世物にでもしようというのか」。当初は固辞したが、次第に迷う。怒りはあるが、「原爆がどれほど残酷なものであったか、それを加害国民である彼らに直接うったえる、これは絶好の機会ではないか」と思い至った。
病院内の撮影場所で病衣を脱ぎ、上半身のケロイドをさらした。フラッシュを浴びると、屈辱感や憤り、悲しみが込み上げ、「この身体をもとにかえせ、まどうてくれ」と心の中で叫んだ。
取材にも対応。自身の体が「人類の平和のためのいしずえ」になるならば、米国で科学者の実験を受けたいと伝えた。ライフの9月1日号は「自分の傷が平和に役立つことを願う生存者」の見出しを掲げ、写真と渡米の意思を紹介した。
取材時、記者側から誰ともなく英語で「原爆患者一号」と言ったという。それをきっかけに国内で「原爆一号」と呼ばれるようになり、国内外からの取材依頼も続いた。
国の援護なく
一方でケロイドは激しく痛み、皮膚移植を繰り返した。手術に耐える体力をつけるため、「わずかばかりの土地」や山林を売り、食費に充てたという。国の被爆者援護はなかった。
著書によれば、家や仕事のあてがないまま、病院側からの求めで51年4月に退院。人から提案され、県産業奨励館(現原爆ドーム)のそばで小さな土産物店を始めた。入院中から考えていた原爆被害者の組織づくりにも動き出す。(編集委員・水川恭輔)
(2025年1月30日朝刊掲載)